2014年05月04日

「○○使い」という発想

○○には、人外の魔物がはいる。能力バトルものもその変形だ。
召喚とか契約とか使役とかパシらせるとか、
「自分の実力以上のものに、やらせる」系のものが嫌いだ。
僕は70年代のスポコンで育ったから、
「基本全部自分でやる」「修行の末獲得する」発想である。

アウトソーシングやら外注やら、
出来る人にやってもらうやら、
金を払ってサービスを買うやら、そういう発想は、
伝統的映画の根本的発想(言い出しっぺが責任を取って、
一番向き合いたくなかった弱点を克服し、内面的成長を遂げる)
と異なると思う。

○○使いは、楽をしたい者の発想だ。
全てのサービス産業は、あなたは苦労しなくてよいのですよ、
ということで発展したが、それはその能力を育てる必要をなくしたため、
結果的にその能力が育たなくなっている。
(もうめんどくさくて、急須で日本茶を入れる人はいないだろう。
あのお茶は旨かった。あれが茶の旨さだった。
糠漬けの習慣も失われ、裁縫や家庭の味もそろそろ失伝の危機だ。
おせちはもう作らないだろう。論文や感想文代行サービスすら、ある)

そんな「誰か他のものを持ってくる」世代が脚本を書き始めているから、
映画は詰まらなくなったのではないか?
これは年寄りの戯れ言か?
posted by おおおかとしひこ at 15:45| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする