2014年08月04日

「演技がすごい」というものは、大抵駄目作品だ

演技を見てしまうということは、
ストーリーに一体化し、夢中になれなかった、という結果だ。

この人はそう思ってないのに、そう思ったふりをしてるんだなー、
ほんとにそう見えるなー、プロってすごいなー、
という感想は、「退屈だった」ということだ。

それよりも、テーマのことをずっと考えたり、
あのときあの人はどうすべきだったのか、とかを見た後でずっと考えてしまうのが、
よい映画だ。

見ている最中は、その感情のすごさに振り回されていなくてはならない。
途中で理性なぞ挟ませるな。
感情で見てしまうものをつくるべきだ。
アレがすごかった、これがすごかった、アレはいまいちだった、
と「分析」させてはならない。
そのような隙を与えないぐらい、ストーリーの進行に夢中にさせるべきだ。
勢いのある感情に訴える作品というのは、そのようなものだ。

ツッコミ満載だとしても、
それを許さないほどの圧倒的熱量で、感情的に巻き込むべきである。
ツッコミの隙があるということは、理性に戻ってしまうところがあるということだ。
物語は恋だ。
現実に戻してしまってはいけない。
posted by おおおかとしひこ at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

不在の在

昔からヒッチコックが苦手だ。
人間の暗部の描き方や、緻密なプロットが、
イギリス人的なねちっこい変態性があるからかも知れない。
同じくイギリス人のキューブリックはその論理性が好きだったりするのだが。

「レベッカ」をようやく見た。
レベッカは既に死んだ女の名だ。
だから画面には一切出てこない。
しかし登場人物は全てレベッカの名を口にする。
存在しないからこそ、想像の中でレベッカの像が巨大に膨らんでいく。
この手を使った最初の映画かどうかは不明だが、
その巧みさが、この映画の本質だ。

(以下ネタバレ)

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posted by おおおかとしひこ at 15:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする