2014年08月18日

外的話だけだと限界がある

外的話、というのは、事件の発生と解決の顛末だ。
映画は、二時間かけてこの問題を解決する。
(とくに、主人公が解決する)
その解決すべき中心の問題をセンタークエスチョンとよぶ。
(センタークエスチョンは様々なサブ問題に分解されることが多い。
例えば脱出のために、車を手に入れる、ガソリンの確保など)

ロッキーなら、世界戦の勝利
(サブ問題はトレーナーの確保、ファイトスタイルの矯正)、
マトリックスなら、敵の殲滅
(サブ問題は裏切り者の始末、モーフィアスの救出)
だ。(マトリックスではセンタークエスチョンは解決しきらず、
その希望が見えたところで終わる)

大抵は小さい問題からはじまって、
そのうち問題の全貌が見える。(第一ターニングポイント)
サブ問題などに手をつけはじめ、
色々あってあとひとつに絞られる。(第二ターニングポイント)

さて、注意したいことは、単なる外的問題解決話では、
たいして面白くない、ということだ。
「内的問題の解決」と話が並行しているから、
映画は面白いのだ。

続きを読む
posted by おおおかとしひこ at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

何故最近の邦画は詰まらないのか

観客はおもしろい話を求めている。

勿論、好きなスターが出ていたり、凄いビジュアルがあると良かったり、
原作の映画化に毎回失望しつつも、今回はいけるのではと期待したりする。

しかし、ほんとうはおもしろい話が見たいだけだ。
笑って、泣いて、人生の深淵に少し触れるような、
みんなと共有したいような、或いは自分のなかだけで大事にしておきたい、
大切な人にだけはこのおもしろさをわかってほしい、
自分の映画鑑賞の歴史に残るような、
おもしろい話を見たいだけなのだ。

にも関わらず、これだけおもしろくない映画が氾濫するのは何故なのか。
簡単だ。

おもしろい話をつくろうと思っていない送り手ばかりだからだ。
(送り手と作り手は、違う組織である)
売れる映画をつくろうと思っているからだ。

受け手と、送り手の間に、
いま、深くて大きな、ギャップがあるのだ。

続きを読む
posted by おおおかとしひこ at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする