僕は建築の専門家ではないが、
ストーリーの構造を建築にたとえると。
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2015年07月11日
変化の点から桃太郎キジ編を批判してみる
ストーリーは時間軸をもつ。
時間とは、変化のことである。
変化がないものを、写真とか彫像などという。
物語とは、時間軸の変化を描いたものだ。
特に、主人公の変化を描く。
外見の変化を描くのは、変身ものやメイクだろう。
しかし人間の真の変化は、外見の変化でなく内面の変化だ。
それを描く物語を人間ドラマといい、
僕は物語の中で最もおもしろい、文学であると思っている。
桃太郎キジ編は、キジの内面の変化は描かれてはいない。
悲しんだだけである。
(犬は、あの拘束具を身につけるという外見の変化はあったが、
それが内面の何の変化を現すのか微妙だ。
復讐の決意程度であり、小さな変化すぎる)
しかも、それが「自分より強い奴を倒せ」というテーマを暗示しない。
内面の変化がテーマを暗示するのものが、人間ドラマである。
キジは悲しんだ。自分より強い奴を倒した。
それだけだ。
外面的には悪落ちした兄を殺したが、
キジの内面は終始愛に満ちているだけで、
内面の変化をしていない。
だからキジ編は人間ドラマではない。
脚本的には0点である。
時間とは、変化のことである。
変化がないものを、写真とか彫像などという。
物語とは、時間軸の変化を描いたものだ。
特に、主人公の変化を描く。
外見の変化を描くのは、変身ものやメイクだろう。
しかし人間の真の変化は、外見の変化でなく内面の変化だ。
それを描く物語を人間ドラマといい、
僕は物語の中で最もおもしろい、文学であると思っている。
桃太郎キジ編は、キジの内面の変化は描かれてはいない。
悲しんだだけである。
(犬は、あの拘束具を身につけるという外見の変化はあったが、
それが内面の何の変化を現すのか微妙だ。
復讐の決意程度であり、小さな変化すぎる)
しかも、それが「自分より強い奴を倒せ」というテーマを暗示しない。
内面の変化がテーマを暗示するのものが、人間ドラマである。
キジは悲しんだ。自分より強い奴を倒した。
それだけだ。
外面的には悪落ちした兄を殺したが、
キジの内面は終始愛に満ちているだけで、
内面の変化をしていない。
だからキジ編は人間ドラマではない。
脚本的には0点である。
正しいフィクションは、神話と物語の両方を兼ね備える
ということで、一連の神話議論の結論。
正しいフィクションは、
凄くてとんでもない、神話世界のようなところで、
物語をすることである。
その両方の面白さを、目指すべきだ。
リアリティー?物語にとても大事だ。
糞リアリティー?神話に邪魔だ。
妄想?神話にとても大事だ。
妄想のみ?物語に邪魔だ。
正しいフィクションは、
凄くてとんでもない、神話世界のようなところで、
物語をすることである。
その両方の面白さを、目指すべきだ。
リアリティー?物語にとても大事だ。
糞リアリティー?神話に邪魔だ。
妄想?神話にとても大事だ。
妄想のみ?物語に邪魔だ。
物語は、神々の遊びか2
(前記事までのダイジェスト)
人は話を凄くしたがる。
神話は、小さな話を凄く語っているうちに、
尾ひれがついて「神」になってしまったもの。
現代の神話は、たとえば芸能人ブログだ。
神話は「凄い」という感情前提。
だから「神」は我々庶民ではない。
物語は、神話ではない。
両者の差は、感情移入の有無である。
(ここから本編)
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人は話を凄くしたがる。
神話は、小さな話を凄く語っているうちに、
尾ひれがついて「神」になってしまったもの。
現代の神話は、たとえば芸能人ブログだ。
神話は「凄い」という感情前提。
だから「神」は我々庶民ではない。
物語は、神話ではない。
両者の差は、感情移入の有無である。
(ここから本編)
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