2015年07月11日

基礎工事

僕は建築の専門家ではないが、
ストーリーの構造を建築にたとえると。

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posted by おおおかとしひこ at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シーンの順番を変えるだけで、行けることがある

経験則なので、適用条件とかはよく分からないが。

構成上、シーンの順番を入れ換えるだけで、
面白くない話が面白くなることがある。

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posted by おおおかとしひこ at 15:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

初見殺し

元はネットスラング(ゲーム発祥)だと思うが、
とてもいい言葉だと思う。

コンセプトをちゃんと練り込んでいないと、
独立した面白さにならない。

逆に初見殺しは、面白さを何かに寄りかかっている。

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posted by おおおかとしひこ at 15:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

変化の点から桃太郎キジ編を批判してみる

ストーリーは時間軸をもつ。
時間とは、変化のことである。
変化がないものを、写真とか彫像などという。

物語とは、時間軸の変化を描いたものだ。
特に、主人公の変化を描く。
外見の変化を描くのは、変身ものやメイクだろう。
しかし人間の真の変化は、外見の変化でなく内面の変化だ。
それを描く物語を人間ドラマといい、
僕は物語の中で最もおもしろい、文学であると思っている。

桃太郎キジ編は、キジの内面の変化は描かれてはいない。
悲しんだだけである。
(犬は、あの拘束具を身につけるという外見の変化はあったが、
それが内面の何の変化を現すのか微妙だ。
復讐の決意程度であり、小さな変化すぎる)


しかも、それが「自分より強い奴を倒せ」というテーマを暗示しない。
内面の変化がテーマを暗示するのものが、人間ドラマである。
キジは悲しんだ。自分より強い奴を倒した。
それだけだ。
外面的には悪落ちした兄を殺したが、
キジの内面は終始愛に満ちているだけで、
内面の変化をしていない。

だからキジ編は人間ドラマではない。
脚本的には0点である。
posted by おおおかとしひこ at 13:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

正しいフィクションは、神話と物語の両方を兼ね備える

ということで、一連の神話議論の結論。

正しいフィクションは、
凄くてとんでもない、神話世界のようなところで、
物語をすることである。

その両方の面白さを、目指すべきだ。


リアリティー?物語にとても大事だ。
糞リアリティー?神話に邪魔だ。
妄想?神話にとても大事だ。
妄想のみ?物語に邪魔だ。
posted by おおおかとしひこ at 13:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

物語は、神々の遊びか2

(前記事までのダイジェスト)
人は話を凄くしたがる。
神話は、小さな話を凄く語っているうちに、
尾ひれがついて「神」になってしまったもの。
現代の神話は、たとえば芸能人ブログだ。

神話は「凄い」という感情前提。
だから「神」は我々庶民ではない。

物語は、神話ではない。
両者の差は、感情移入の有無である。

(ここから本編)
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posted by おおおかとしひこ at 12:58| Comment(3) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする