小説「てんぐ探偵」の総文字数。
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2015年09月02日
ストーリーとは変化のことである2:他人の話
続き。
一人のなかの変化を描くのは、
一人称のストーリーだ。
このブログでは映画脚本について考えている。
テレビドラマやショートフィルムのストーリーについてもだ。
それらの特徴は、三人称であることだ。
一人称と対比的に考えるのならば、
三人称のなかの変化を描くのが、
三人称的ストーリーだ。
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一人のなかの変化を描くのは、
一人称のストーリーだ。
このブログでは映画脚本について考えている。
テレビドラマやショートフィルムのストーリーについてもだ。
それらの特徴は、三人称であることだ。
一人称と対比的に考えるのならば、
三人称のなかの変化を描くのが、
三人称的ストーリーだ。
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ストーリーとは変化のことである
通常運転に戻ります。
ということで、根本的に考えよう。
我々の属する芸術分野、
ストーリーの特徴とはなにか。
ストーリーとは時間軸があることだ。
時間軸がある、ということは、変化があることである。
(変化しないものは時間軸がない)
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ということで、根本的に考えよう。
我々の属する芸術分野、
ストーリーの特徴とはなにか。
ストーリーとは時間軸があることだ。
時間軸がある、ということは、変化があることである。
(変化しないものは時間軸がない)
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アイデアに著作権はない
アイデアとは、実体を持たないものである。
別の表現が可能で、表現形はいかようにも変えられるからだ。
アイデアそのものを、オリジナルとして保護すべきだ。
しかしアイデアには実体がない。
だから実体としての、モチーフや表現形に、
著作権が存在する、という形式で、
アイデアの著作権を守るのである。
モチーフをパクれば、そこに付随するアイデアも、
パクったことになるからだ。
僕はそう考えている。
アイデアにこそ、クリエイティビティがある。
それこそ至高でなければならない。
そのアイデアがいいか悪いかを、議論するべきなのだ。
別の表現が可能で、表現形はいかようにも変えられるからだ。
アイデアそのものを、オリジナルとして保護すべきだ。
しかしアイデアには実体がない。
だから実体としての、モチーフや表現形に、
著作権が存在する、という形式で、
アイデアの著作権を守るのである。
モチーフをパクれば、そこに付随するアイデアも、
パクったことになるからだ。
僕はそう考えている。
アイデアにこそ、クリエイティビティがある。
それこそ至高でなければならない。
そのアイデアがいいか悪いかを、議論するべきなのだ。
芸術の定義
僕は、芸術というものはたいして難しくないものだと思っている。
誰にでもわかり、誰にでも味わえるものだと思っている。
一部の人しか分からない至高もあるのかも知れないが、
他の人を拒否することもないだろうと思っている。
美しいとか美しくないとか、
分かるとか分からないとか、
分かってかつ美しいとか、
みんなで議論出来るものだと思っている。
映画は芸術だし、歌も絵も漫画も小説も演劇も芸術で、
デザインも芸術だと思っている。
芸術はアカデミーにこもる一部の権力者のものではない。
歴史を踏まえた評論家が、
大衆にも分かるように解説し、
これのこういうところを踏まえた上で、
こう発展させたのだ、
と解説できるものであると考えている。
理想主義にすぎるかも知れないが、
芸術で理想を語らずして、何で理想を語るのだ。
面白い面白くない、
良くできてるできてない、
美しい美しくない、
機能するしない、
感性と理屈と、意識と無意識の、
全ての交差点に芸術はいるはずだ。
芸術という言葉が、難しい言葉だとしたら、
僕のいう芸術は、文化といってもいい。
芸術と文化に僕は違いがない。
どちらも豊かで、楽しく、時にせつなく、
人生を肯定するものだと思っている。
そこに、少しだけ技術が介在する。
それをアートというだけだと思う。
(だから科学も文化で芸術だ)
僕は、そのような素晴らしいものであるからこそ、
人類の宝であると考える。
誰かの成功はよくやったと称え、
誰かの失敗にはブーイングし、
罪を憎んで人を憎まず、次の作品を待てばいいだけだ。
だから、こっちが知らないと思って、
人の苦労をパクる奴が許せない。
いや、罪を憎んで人を憎まずだった。
人の苦労をパクる行為が許せない。
そのパクりに騙されるぼんくらたちが許せない。
いや、罪を憎んで人を憎まずだった。
そのパクりに騙されるぼんくら行為が許せない。
じゃあ佐野よ。血を吐きながらオリジナルをつくれや。
誰にも認められなくてもいいから、
神様だけに認められ、神様だけには恥ずかしくない、
いいものを作ってみろや。
一円も稼がなくてもいいから、
自分のオリジナル作品で人を幸せにしてみろや。
作者名が残らず、作品が残る人生を選べや。
そんなことやったことないんじゃないのか?
詠み人知らずだが、これはいい、という残り方のほうが、
一代で財をなすことより、僕には理想だ。
パクりだろうがそうでなかろうが、佐野デザインは僕は嫌いだ。
幼稚園のお遊戯としてなら、かわいいねえ、と言えるレベルだけど。
それは、絵柄だけでなく、モチーフとテーマの関係が、
たいして新しい考え方ではないからである。
普段もっと大人の作品を作っていて、時々こういう子供な考え方も必要だよ、
と言うのにはちょうどいいけど。
佐野デザインには手書きの良さが全然ない。
ポンキッキやモンティパイソンで育った、
70年代のアナログ世代にとって、
イラレで書いた幾何学模様はなにひとつグッと来ない。
ウゴウゴルーガが出たとき、
僕はコンピュータのつくる図形は、偽物だと思った。
正確には、イデアだと思ったが実体がないと思った。
我々は実体を持ち、実体として世界に生きて、実体として死ななければならない。
それが、イデアとしてではなく、
実体を使って実体にある秩序を与えたものが、芸術または文化だと思う。
佐野デザインには、その了解がないと思う。
だから嫌いだ。
せめて積み木のパーツを手書きで作っていればよかったのに。
手書きで色を塗っていれば、あんな変な配色にはならないのに。
そうすれば、ガワでなく、考えが大事だと早晩気づけるはずなのに。
血のにじむほど脳が考えたものでないことは、
血のにじむほど脳で考える我々にはバレバレだ。
佐野デザインには、それはいい考えだ、というオリジナルの考えがひとつもない。
(あるかも知れないから、あったら教えてください。
ついでに、佐藤可士和も大貫卓也も大嫌いです)
長々と畳みもせずに書いているのは、
佐野事件は我々の信ずるものを炙り出すのに、
丁度良いからである。
全ての芸術文化に携わる者の踏み絵に丁度良いからである。
それぐらい、僕はこの一件に関して怒っている。
もう一度基本スタンスを書く。
クリエイトの反対は、イミテイト。
創るの反対は、パクる。
創ることは考えること。パクることは思考停止。
誰にでもわかり、誰にでも味わえるものだと思っている。
一部の人しか分からない至高もあるのかも知れないが、
他の人を拒否することもないだろうと思っている。
美しいとか美しくないとか、
分かるとか分からないとか、
分かってかつ美しいとか、
みんなで議論出来るものだと思っている。
映画は芸術だし、歌も絵も漫画も小説も演劇も芸術で、
デザインも芸術だと思っている。
芸術はアカデミーにこもる一部の権力者のものではない。
歴史を踏まえた評論家が、
大衆にも分かるように解説し、
これのこういうところを踏まえた上で、
こう発展させたのだ、
と解説できるものであると考えている。
理想主義にすぎるかも知れないが、
芸術で理想を語らずして、何で理想を語るのだ。
面白い面白くない、
良くできてるできてない、
美しい美しくない、
機能するしない、
感性と理屈と、意識と無意識の、
全ての交差点に芸術はいるはずだ。
芸術という言葉が、難しい言葉だとしたら、
僕のいう芸術は、文化といってもいい。
芸術と文化に僕は違いがない。
どちらも豊かで、楽しく、時にせつなく、
人生を肯定するものだと思っている。
そこに、少しだけ技術が介在する。
それをアートというだけだと思う。
(だから科学も文化で芸術だ)
僕は、そのような素晴らしいものであるからこそ、
人類の宝であると考える。
誰かの成功はよくやったと称え、
誰かの失敗にはブーイングし、
罪を憎んで人を憎まず、次の作品を待てばいいだけだ。
だから、こっちが知らないと思って、
人の苦労をパクる奴が許せない。
いや、罪を憎んで人を憎まずだった。
人の苦労をパクる行為が許せない。
そのパクりに騙されるぼんくらたちが許せない。
いや、罪を憎んで人を憎まずだった。
そのパクりに騙されるぼんくら行為が許せない。
じゃあ佐野よ。血を吐きながらオリジナルをつくれや。
誰にも認められなくてもいいから、
神様だけに認められ、神様だけには恥ずかしくない、
いいものを作ってみろや。
一円も稼がなくてもいいから、
自分のオリジナル作品で人を幸せにしてみろや。
作者名が残らず、作品が残る人生を選べや。
そんなことやったことないんじゃないのか?
詠み人知らずだが、これはいい、という残り方のほうが、
一代で財をなすことより、僕には理想だ。
パクりだろうがそうでなかろうが、佐野デザインは僕は嫌いだ。
幼稚園のお遊戯としてなら、かわいいねえ、と言えるレベルだけど。
それは、絵柄だけでなく、モチーフとテーマの関係が、
たいして新しい考え方ではないからである。
普段もっと大人の作品を作っていて、時々こういう子供な考え方も必要だよ、
と言うのにはちょうどいいけど。
佐野デザインには手書きの良さが全然ない。
ポンキッキやモンティパイソンで育った、
70年代のアナログ世代にとって、
イラレで書いた幾何学模様はなにひとつグッと来ない。
ウゴウゴルーガが出たとき、
僕はコンピュータのつくる図形は、偽物だと思った。
正確には、イデアだと思ったが実体がないと思った。
我々は実体を持ち、実体として世界に生きて、実体として死ななければならない。
それが、イデアとしてではなく、
実体を使って実体にある秩序を与えたものが、芸術または文化だと思う。
佐野デザインには、その了解がないと思う。
だから嫌いだ。
せめて積み木のパーツを手書きで作っていればよかったのに。
手書きで色を塗っていれば、あんな変な配色にはならないのに。
そうすれば、ガワでなく、考えが大事だと早晩気づけるはずなのに。
血のにじむほど脳が考えたものでないことは、
血のにじむほど脳で考える我々にはバレバレだ。
佐野デザインには、それはいい考えだ、というオリジナルの考えがひとつもない。
(あるかも知れないから、あったら教えてください。
ついでに、佐藤可士和も大貫卓也も大嫌いです)
長々と畳みもせずに書いているのは、
佐野事件は我々の信ずるものを炙り出すのに、
丁度良いからである。
全ての芸術文化に携わる者の踏み絵に丁度良いからである。
それぐらい、僕はこの一件に関して怒っている。
もう一度基本スタンスを書く。
クリエイトの反対は、イミテイト。
創るの反対は、パクる。
創ることは考えること。パクることは思考停止。