2016年02月07日

ぼっちの話つづき

また極論すると、
物語とは、民度の低いところからスタートして、
民度を獲得することである。
ぼっちなどという高等遊民は、民度の低い場所に不要だ。
posted by おおおかとしひこ at 13:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

孤高の戦士とは、ぼっちのことだ

物語の反対語を、僕はぼっちと定義しよう。

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posted by おおおかとしひこ at 12:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

デジタルは人を幸せにしない:極論

デジタルの創作は、アナログ創作の劣化だ。

アナログ創作が出来る人がデジタルを代替に使うなら、
大した劣化じゃない。
問題はデジタルネイティブだ。
デジタル創作は、創作の質を下げた。
気軽に創作の気分を味あわせる代替品にすぎない。

楽器を使えないやつが打ち込みをする。
デッサン出来ないやつがペイントする。
現像できないやつがフォトショにはしる。
原稿用紙に書けないやつがワードで書く。
地図を読めない奴がグーグルマップで迷う。
知識のない奴がググる。

一見クオリティに差がない。
差がないのは表面だけで、
人間の深いところが劣化しているのを、
デジタルネイティブは気がつかない。
楽に出来るからだ。
手足を使わなくて済むからだ。


創作は、手足をどれだけ使ったかで決まる。
人間の心には、手足をどれだけ使ったか分かる万歩計のようなものがついていて、
何となく読み取ることができる。
深いとか浅いという感覚だ。
苦労したものが深いとは限らないが、
楽したものはすべからく浅い。

つまりデジタルに出来ない部分が本当の創作だ。
シンギュラリティを前にして、我々人類は創作こそ人類の寄る辺だと考えるべきだが、
それはたかがAdobe製品よりも、深い領域の話であるべきだ。
(シンギュラリティは半分冗談だが、
人工知能研究は、ここまで機械、ここから人間という、
境界の研究でもある)


音楽は盤ではなくライブになろうとしている。
デジタルコピーじゃ出来ない、
手足をどれだけ使ったかに回帰しつつある。
音楽は人の本質に近い。
つまりは、人の本質はデジタルネイティブではない。
posted by おおおかとしひこ at 03:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

デジタルは人を幸せにしない:手足をもがれた頭

今日の撮影現場は最悪だった。
デジタル撮影時代の膿のたまり場だった。

デジタルは人を幸せにしない。
手足を使って働くことをしなくなり、
頭だけで働くことしかしなくなる。

手でこね、足で稼いでつくるものを、
頭だけで考えるようになり、
「童貞の考えるエアセックス」みたいに、
「おっぱいの位置にリアリティーがないもの」ばかりを作ってしまう。
手足のリアリティーがあれば、そんな夢想をするわけないのに。

地に足がついていない夢想は現実的ではない。
偉人の夢想は、優れた手足の先にしかない。

生産を海外でやり設計管理のみを本国でやる、
日本産業のような、技術の根拠のないものづくりになっている気がする。

おっぱいの位置を知らない童貞が、
おっぱいマシーンを設計している。
今の現場はそんな雰囲気だ。
書を捨てよ街へ出よう。
一ヶ月デジタル禁止で、ものづくりをするのはよいことかも知れない。
出来れば三年ぐらいやって、
手足を作って、それが衰えてから頭だけで働いてはどうか?

つまり日本は、もう手足が老衰して、
頭だけで生きてる老人なのかも知れない。

若者よ。紙とペンだけで創作をせよ。
清書もペンだけでやれ。修正液は許可しよう。
足で現場に調べに行け。ググるの禁止。図書館で調べろ。
(そもそも図書館で調べるだけの基礎教養のない人間は、
物書きは出来ない)

それで面白く、きれいに仕上げられる奴だけが残れ。
出来ない奴は元々才能がないどんくさい奴なので、
努力するだけ無駄だ。伸びてもちょっとだ。


デジタルは人を幸せにしない。
夢に見切りをつけづらくさせていることで、
淘汰が行われず、
結果、現場の純度が下がっている。
posted by おおおかとしひこ at 02:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする