「物語というものは、AとBと異物で出来ている」
という説で、映画脚本の構造を論じてみようと思う。
仮に「異物論」と言ってみる。(もっとキャッチーなネーミングにしたい)
たとえば。
朝、サラリーマンが出勤しようとしている。
と、目の前に赤いぶよぶよとした玉が浮いている。
それをじっと見ている主婦に尋ねる。
「なんですかこれ?」
「分らないの。しかも、ちょっとずつ動いているの」
物語に必要なのは、登場人物と異物(この場合、赤い玉)である。
人物の日常が、異物によって壊される。その異物は、日常と遠い方が話が面白い。
(今日締め切りの家賃を払う、とかではない。逆に、家賃から大きな話になってゆく
「サンセット大通り」のようなパターンもある)
壊された人物は、日常の回復のために、行動せざるを得なくなる。
異物の除去が人物の目的となる。これを劇的動機という。
(正確には動機には内的動機と外的動機があるが、ここではまだそこに触れない)
例では、サラリーマンがこのまま無視して出社してしまえば物語は起こらない。
彼の日常がこの異物によって壊されると、物語がおこる。
たとえば、かばんが赤い玉に吸い込まれてしまうとしよう。
彼は、かばんを取り戻す(その後無事に出社する)ことが目的になる。
そこに今日の会議で使う重要書類が入っていた、などの設定を事前に前振っていれば
事態はより緊急となる。
AとBとは、登場人物が複数いるということだ。
地の文のない映画では、セリフのやり取りによって起こっている事態を把握したり、
気持ちを表現したりする。
一人のままでは、彼の内面や世界との関係などについて、独り言を言い続ける必要がある
(不自然だ。まあ、そういうモノローグ映画もあるけど)。
この例では、サラリーマンと主婦が、異物、赤い玉とは何かについて会話を交わすであろう。
このことで、彼らの日常が壊されていくことが、観客に伝わって来る。
つまり人物のセリフは、半分は、観客が何が起こっているかを把握するためにある。
そのために最低二人必要だ。
(たいてい対照的な二人になることが多い。ヘンな人と普通の人の対比などもある。
いつもコンビを組んでいる設定なら、バディムービーと呼ばれる。)
他にも例をあげると、
・芽の出ないボクサーと地味な女の日常に、世界戦の話が(ロッキー)
・ユダヤ人とローマ人の友情の間に、ローマ軍が到着(ベンハー)
・ハッカーに、謎の男からの使者(マトリックス。この場合使者がBを兼ねる)
・いじめられっ子の日常に、未来から来た青いロボットが出現(ドラえもん。使者がBを兼ねるパターン)
・地味なオタクと隣の可愛い子の日常に、クモに噛まれてスーパーパワーが(スパイダーマン)
などである。
日常(我々と近い設定もあるし、時代劇やSFなど遠いジャンルもある)や異物の種類によって、
その映画のジャンルが決まると言えるだろう。
煎じつめれば、脚本のアイデアとは、異物と、異物によって壊される日常と、
AとBを思いつけばいいのである。
さて、異物によって壊された日常の回復を求めて、AとBは何かをしはじめる。
このあとは、いわゆる三幕構造が出てくるが、その話はまた次回に。
2013年07月04日
この記事へのコメント
今日このページを発見しました。読者になろうと思いますので、よろしくお願いします。
Posted by 埠頭の男 at 2014年02月14日 11:20
コメントを書く
この記事へのトラックバック