2013年07月23日

異物論(仮)5: 物語とは、動くことである

異物論つづき。すいません今回で最終回にならなさそう。

プロット表を書いていておちいりがちな誤りに、
「○○だと分る」「○○と話をする」などを重要なポイントとしてしまうことがある。
これはダメだ。ストーリーの停滞ポイントになりやすい。

そうではなく、「(その結果)○○が△△する」ことをポイントにしたほうがよい。
分ったり、話をしているだけではものごとは動かない。
誰かが動かないと、事態は動かないからである。
動くことを、映画では「アクション」という。
「アクション」は、何も格闘やカーチェイスだけでない。「○○をする」という動詞で描けることでよい。
つまり、プロット表とは、動詞=アクションの羅列(軌跡)のことである。

状況や、人の内面(今の気持ち、評価、哲学、つもり、トラウマなど)などが
変わらない場合、物語は停滞している。
ただだべって話をしたり、ギャグを描いたりしているだけではこれらは変わらない。
(失敗した映画には、かならずこのような停滞がある)
何か事態が動いた、変化した、だから人は動き、事態が動き、また人が動く。
あちらを立てればこちらが立たず、ベストの解決やうまい出しぬきを模索し続ける。
動き続ける事態の変容が、ストーリーそのものだ。
ストーリーは、転がりながら動く車輪である。
一拍二拍休憩することもあるが、止まったら、二度と動かない。
止まるのは、エンドマークの時だけである。

物語は、最初止まって(停滞して)いる。異物の出現以前は、何も変えられない、変わらない日常だ。
だが、異物の出現で、主人公は「動く」必要に迫られる。
主人公が動くことで、事態が動く。新しい事実や関係者が現れる。
彼らも動き、状況は動き続ける。その変容がストーリーである。
動きは、ラストまで止まらない。全てが解決し、元の安定に戻るまでが、物語の本質だ。
動き続け、転がり続ける話だけが人を引き付ける(「この先どうなるの?」)。
その動きの行く先こそが、「ストーリーの焦点」である。

動くことを記述する単語は、動詞である。
だから、プロット表は、出来るだけ動詞で書く。

動きには、必ず理由がある。それを動機と言う。
事態の変容とは、動機の変容も含む。


脚本を書く上で最も難しい問題のひとつは、「次に何をしてよいかわからず、話が止まる」ことだ。
「物語とは、動くことである」ということを覚えておくと、この愚を避けられるだろう。
メインプロットが停滞していたら、サブプロットで人が動いてもよい。

異物論では、「異物の除去による日常の回復」が大きな動機となって、
そのために色々行動することで話が動いていくように構成を考えればよい。
「自分は何もしなくても、周りが動いてくれる」話はご都合主義だ
(宮崎駿の新作「風立ちぬ」はそんな個所が散見され、その度にいらいらする)。
動く、という能動態で話をすすめること。

人生と同じだ。自ら動く人に、人は協力する。反対もする。
停滞は、動かないことだ。それでは人生は幸福にも不幸にもならない。
人生を幸福にするなら、動くしかないのだ。
異物論では、異物がその最初のきっかけを与えるのだ。


たぶん次回で最終回。異物とテーマの関係について。
posted by おおおかとしひこ at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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