長々とすいません。異物論とりあえず完結させます。
テーマなき物語は、ただの混沌である。ばらばらなものの寄せ集めだ。
テーマは、物語を「ひとつのもの」にまとめあげる。
物語の全ての要素は、テーマに沿って存在し、テーマから生まれ、
発展したプロットは、最終的にテーマに帰着する。
全ての要素は、テーマの為に注意深く選ばれ、並べられたものである。
テーマは、コンセプトといってもよい。
「この物語をひとことで言うと、何か」ということだ。
テーマを「作者の主張」と誤解するのは、国語教育の弊害だと思う。
「言いたいこと」ありきで物語を書くのではないからだ。
(ナチスや某宗教のプロパガンダ映画や、道徳教育の物語が、なぜつまらないのか、考えればわかる)
「言いたいことを言ってみろ」と言われて、殆どの初心者は、
「戦争反対」「正義は勝つ」「愛が大事」「限られた時間を、一瞬一瞬だいじにする」
「差別反対」など、他の人に後ろ指刺されない、「ただしいもの」を選んでしまう。
高校生の弁論大会になってしまうのだ。
誰もが知っている当たり前のことを主張されても、主張とは言わない。
(「イノセンス」「キャシャーン」あたりの糞映画を見れば、
「作者の主張」とはなんと陳腐で幼稚なものかわかるだろう)
テーマをテーゼ(証明すべき命題)のように考えると、少し分りやすくなる。
「友情の為には、献身が必要である」「誤解を解くのは、自分をさらけ出す勇気」
「男女間の友情は、ありえる」「どれだけ遊んだかが、結局仕事でも大事」
など、「多分合っているだろうけど、絶対正しい訳でもないこと」
ぐらいを選ぶと話がつくりやすい。
主人公Aの内面の問題点を、その逆に設定すればよいからだ。
「人の為に何かをするのはバカだと思う男」「自分の内面を見せるのが怖い男」
「恋愛相手としか男を思っていない女」「子供のころから遊んだことのない堅物」
が、物語全体で真逆の考え方になっていくように、試練やプロットを組んでいく。
最も簡単なのは、「真逆の考え方の人間と対立する」という方法だ(シャドウ)。
または、似たような考え方と競合する、でもよい。ふたつをまとめて、コンフリクトという。
(コンフリクトは、ハリウッド映画の基礎。日本映画には、あるときとないときがある)
それらとケンカしたり闘ったりすることで、主人公はいつか、自分の内面とも闘う必要が出てくる。
その欠点を乗り越える必要のある冒険が、目の前に横たわっているようにする。
主人公がそれを乗り越えるところが、クライマックスになる。
異物とAの関係は、そのようになるように組むのである。
異物に出会い、日常の回復を求める過程で、Aは最終目的を果たす為には、
最終的に自分の欠点をのりこえる必要が出てくるようにするのだ。
そのピークが、心理的クライマックスであり、メインプロットのクライマックス(か直前)に
一致するようにすると、話は最も盛り上がる。
サブプロットは、そのテーゼに関係しうるサブ問題として配置するのがベストだ。
あるコンセプトを表現するのに、真逆(敵)、ちょっと別方向からの意見、の
双方があると分りやすくなるのと同じである。
前者がメインプロット、後者がサブプロットになるだろう。
物語に成長が必要、と言われるのはこのテーゼ方式で考えると、わかりやすい。
主人公は初期状態では、テーゼの逆であり、最後にはそれを克服してテーゼを体現する人になる。
その変化、動きそのものが物語という軌跡であり、結果的に成長なのだ。
(破滅、という負の方向の成長もある。最悪映画「レクイエムフォードリーム」を見よ)
テーマは、テーゼ方式で書くと、物語を書きやすいだろう。
例をあげよう。
実写版「風魔の小次郎」のテーマは、
「伝統的な忍びの形式から脱却し、(人の心に暖かい風を吹かせるような)
新しい形の忍びになること」だ。
僕自身の言いたいこと、ではない。原作の作者、車田正美先生の主張でもない。
ドラマ全体をこの軸で貫くと面白くなる、と思ったからそうしただけだ。
(僕自身の主張は、もっと予算をくれ、とか、姫子カワイイ、とか、CGかっけー、とか、
正しい少年漫画の実写化をするべき、とか、強い善人であれ、とかだ)
主人公小次郎は、伝統的忍び観を、頭では理解しているものの、
それに納得いかない暴れものとして登場する。
彼が姫子という異物に出会うことで、彼の闘う動機が出来、夜叉排除という大目標が出来る。
その「夜叉との闘い」がメインプロットだ。
姫子とのサブプロットは、最終的に「強い善人」という理想につながり、
人間と忍びの立ち位置を彼なりに確認する
(10話「告白」はメインプロットの最終決戦前の、心理的なクライマックス)。
シャドウは、長兄竜魔だ。外敵であり、「冷たい世間の風」を知る武蔵が、
もうひとつのシャドウである。小次郎は、これと闘う。
武蔵は絵理奈経由、夜叉との対決経由で。
竜魔は日々のくらしの中で(数々の先輩、項羽、劉鵬、霧風との絡み、死や、同輩麗羅との関係の中で)。
しかも、彼は闘いを放棄したり、途中でだれたりすることがない。
強い動機「姫子に惚れている」を持つからである。
この一点で、彼の行動は首尾一貫し、動き続けるのである。
それは、そもそもの、最初の異物(姫子)との出会いで示されているのだ。
(異物が恋愛対象であるとき、異物の除去よりも、それを手に入れる事が最終目的になる。
日常への回帰は、どきどきして眠れないこの異常状態をなんとかしたい、ぐらいに考えるとよい)
最終的に、小次郎は風林火山の使い手という最強の男に化ける。
しかも、内面的な成長、「忍びであり続ける事と人間であり続けることを両立させる」。
テーゼ方式で書くテーマ以外にも、テーマの書き方はありえるだろう。
僕自身も、テーマとは何だろう、と日々考えている。
異物論は、脚本を書くときのガイドとして有効だと思う。
それが面白い物語かどうかは、AとBがどんなであるか、と、どのような異物とどう出会うか、
ということで決まると思う。
そのように組まれていない物語は、結局面白くないだろう。
(「風立ちぬ」が面白くないのは、主人公二郎にとっての異物「菜穂子との出会い」が、
彼の人生や仕事になんら影響しないことだ。
飛行機制作のメインプロットが曖昧。動詞で描かれず、状況描写で終始しており、退屈。
菜穂子とのサブプロットが途中からメインに逆転している、ねじれた構造。
同僚本庄のサブプロットや、ドイツ人のサブプロットが破綻している。
異物からはじまった物語が、クライマックスを迎えない。
クライマックスは菜穂子が出てゆく場面かもだが、二郎は何もしていない。動詞で記述できない。
菜穂子が主人公、ぐらい、奈緒子に動詞が多い。
私小説や日本映画の多くでは、周りの人がなにかをしてくれるが主人公がなにもせず、
動くのは最後の最後になって、というパターンが多い。
「自分を描く物語」の危険性はそこだ。自分は座って楽したい無意識が出る。
主人公が動かず、周囲(戦争や会社も含む)が主に動いている。
物語を動かすのは主役だ。戦争を動かすことは出来ないから、
飛行機をつくること(メインプロット)や菜穂子とのこと(サブプロット)で、
事態を動かさなくては主役の価値がない。主人公の動きが物語の動きなのだから。
「ナウシカ」「ラピュタ」「カリオストロ」などの傑作では、主人公に最も動詞が多かったのに)
さて、異物論はこれにてとりあえずおしまい。
さらに詳しい脚本構成理論「十三うどん理論」というものを書いたが、いずれどこかで発表します。
余力があれば、「動くこと」をもう少し書くかも。
2013年07月24日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック