予告通り、物語という動きについて。
仮に、「超憧れのアイドルと、ずっと暮らす」という生活を
書くとしよう。
妄想をいくら爆発させてもいい。本一冊ぶん書いてもよい。
あらん限りの最高を、書きつづったとしよう。
残念ながら、それはストーリーではない。
「二人の暮らし」という静止した状態を、端から順に書いたものである。
「はじまりもない、おわりもない、理想の幸福状態」について書かれて
いるだけだ。
もし書いてて非常に楽しければ、いつまででも書けるだろう。
静止した状態を書いているかどうか、自己判断する基準があるとすれば、
「この状況を、いつまででも書いていたい(飽きるまで)」と
自分が思うかどうかだ。
理想のビジュアル、理想の髪形、理想の服、理想の匂い、理想のセックス、
理想の家、理想の環境、理想のごはん、理想の会話、理想のベッド、理想の夜、
理想の朝、理想の季節、理想のしぐさ、理想のふれあい、理想のふとした瞬間、
理想の嫉妬、理想の仲直り、理想のペット…
試しにアイドルとしてみたが、「実在の好きな人」に置き換えても同じだ。
それは、あなたの理想にすぎない。同じ理想を共有する人は楽しめるが、
そうでない人は、ディテールにしっくり来ない。つまり、万人向けではない。
マーケットが狭いと言い換えてもいい。好みに左右される。
ストーリーとは、動きだ。
「アイドルと暮らす状況」が、「すれ違いで彼女が出ていってしまう」
「追いかけるが、彼女は説得を聞かない」「二人は音信不通に」「新しい
男が出来る」「一年後、彼女が近くに来ている事を聞き、会いにいくこと
にする」などの一連がストーリーだ。
「暮らしの状況」の変化が、動きである。
「二人で暮らす」→「一人で暮らす」という動き、「彼女が出ていく」
という動き、「男が追いかける」という動き、「別れる」「再び会いに
いく」という動きがストーリーである。
ちなみにこれは、「ノッティングヒルの恋人」というストーリーの一部だ。
最初の「暮らし」は、一場面にすぎない。映画の一場面は、数分から10分
程度である。つまり、あなたの妄想がどれだけ広大でも、数分の場面に
しかならない。
何故か。
物語は、絵画や写真や建築や彫刻や真理ではないからだ。
物語は、音楽や舞踏や料理や試合と同じジャンルのものである。
両者の差は何か? 時間軸の有無である。
前者は「時間に左右されない、永遠に残るもの」であり、
後者は「展開を楽しむもの(それ故、消えてなくなるもの)」である。
時間軸を持つものは、消えてなくなるのが宿命だ。我々の命を含めて。
「だから、消えないものをつくる」が前者であり、
「だから、そんな我々を、いっとき歌い楽しむ」が後者だ。
「理想の暮らし」をただただ書くのは、前者に属する。
静止した状況は、物語ではなく絵画なのだ。
仕事柄、アートディレクターやグラフィックデザイナーの人と仕事を
組むことがある。彼らの仕事は「静止するもの(そして美しいもの)」を
つくるのが根本であり、我々の仕事は「動き」をつくるのが根本だ。
だからディスコミュニケーションがはげしい。彼らがストーリーだと
無意識に思うものは、我々にとっては一場面に過ぎないことが多い。
場面の変化、状況の変化がストーリーだと説明しても、彼らは殆ど
(教養を持たないのか、職業病か)理解出来ない。「強いワンシーン」
「強い一言」と、「アイドルとの生活」と同じ事を要求してくる。
静止した状況は、同じ音が出続ける音楽と同じだ。
これが転がることが、時間軸をもつことだ。
(どうやって? それは異物論で概容を示した)
その転がり、変化を動きと呼ぶのだ。
物語を書いている時、特に前半部に多いが、「この状況をしばらく
書いていたい」と思う所は要注意だ。(緊張のあとの小休憩で
起こりやすい)
必ず、次の展開に困る。「この状況」が気に入って、次に転がれない。
「気に入っている状況」なら、次の変化は悪化しかない。
その状況を何かが壊すと、次の展開が可能になる、という対処療法が
役立つだろう。
動きの話、続きます。
動きは記憶出来ない、記憶は写真的である、という逆説的な話をします。
2013年08月04日
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