「物語=動き」の続き。
我々人間の脳の仕組みだろう、というのが僕の仮説だが:
「人間は、動きを記憶できない。記憶の構造が、静止画とその組み合わせでしかない」
というものだ。
ダンスの振り付けは、ポーズで記憶する。(動きは、それのつなぎとして理解する)
楽しい思い出や辛い思い出は、場面の記憶。(どうしてそうなったかは、再構築できるときもある)
おそらく、人間の脳は、動きを何枚かの静止画(写真)にすることで、
記憶容量を圧縮するのだ。
逆に、静止画を見る事で、動きを「思い出す」ような仕組みなのだ。
(逆に、よい写真は、動きを上手くとじこめたものだと思う)
デジタル動画の圧縮でも似たようなことをしているだろう。
楽譜においても、記号ひとつで音の高さと長さを表し、流れを譜面化する。
静止した記号と記号の間は、「音が鳴る動き」が補間する。
名作映画を思い出してほしい。自分の体験談を思い出してほしい。
最初から最後まで、「一連の動き」として出てくるだろうか。
おそらくは、場面場面で出てくるはずだ。(時系列すら、ばらばらに)
それを「人に説明する」段になって、はじめて時系列を意識し、
何故そうなったかという事情や動機を付与し、場面と場面の間の動きを補間するのではないか。
「一連の物語」としてうまく再生できない場合は、いくつかの名場面の再現にとどまるだろう。
(映画の感想を語る時は、いくつかの名場面で代表するものである)
話の下手な人は、オチという名場面を先に言ってしまって、全体の流れを上手く再現できない。
小学校の卒業式は、名場面を連続させることで、間の「動き」を思い出させるようにする。
僕の仮説にすぎないが、経験上、
「人は動きを全て記憶できない」「静止画のいくつかとして記憶され、動きは補間として再現される」
「語られた物語は、そのように記憶、格納される」
ではないかと思うのだ。
脚本打ち合わせでよくあるケースに、プロデューサー達は、場面(シーン)の連続で脚本を
把握していたりする。動機や導線や動作や世界の動的変化ではなく、ポスターに使えそうな、
「一枚絵が何枚かあるもの」としてストーリーをとらえている。
だから、「あの場面とこの場面を入れ替える(または削る、統合する)」以外の提案が出来ない
(ことが多い)。ここの動機をこのようにし、導線をこう変更する、ここでこれを知るようにする、
などという動きの指示はしない。その動きの波紋で、どうそのほかの動きが変わってゆくかまで
想像する力はない。プロですら、物語を「動き」でとらえることはなかなか難しい。
我々の扱うものは、ダンスのような動きだ。
にも関わらず、こうしてはどうか、というサゼスチョンは静止ポーズの編集についてなのだ。
「ラストシーンは絵画的にせよ」と、脚本の教科書でよく言われる。何故だろう。
物語は動きである。異物との出会いではじまったら、動き続ける。
全ての動きが停止するのは、ラスト以外ない。そこでテーマが定着し結論が出る。
つまり、ラストとは静止であり、結論(テーマ、コンセプト)だ。
これを一幅の絵画のように描ければ、「記憶に残るテーマ」となる理屈なのだ。
コンセプトが一枚絵で描ける映画は強い。
その映画=その美しい絵、という一対一の対応が脳内で行われる。
「名画」ということばは、そのような事を暗示する。
ラストシーンだけでなく、重要なシーンが絵画的に美しいとよりよいだろう。
途中途中の名場面が絵画的であると、記憶に残る静止画=名場面という結びつきが、
より強くなる。(「天空の城ラピュタ」は、その典型)
しかし、これは「単に美しい絵を一杯撮る」ことを意味しない。
「重要なポイントが、絵画的に美しい」というふたつの要素を備える必要があるのだ。
逆に、さほど重要ではないシーンが絵画的に美しかったとしても、
(スタッフの労苦は報われることなく)その美しさに意味はない、と断言してよい。
(「リリィシュシュのすべて」で、冬の朝、煙草の煙を吐く美しい逆光のカットがある。
それ自体は美しく印象に残るが、物語の筋とは関係ない。惜しい)
出来得るなら、重要なシーンの順に、美しい順になっているのが理想だ。
どちらにせよ、ラストシーンは、最も絵画的になっていなければならないが。
(「第三の男」など、ラストシーンの絵画的美しさゆえに名画とされるものは多い)
以下、つらつらと箇条書きにしてみる。
スローモーションは、何故気持ちよく、美しいのだろう。
美しい女が振り向き、緩やかな風が吹く。
ヒーローが風の中から現れる。
はげしいアクションの中に、決め絵がある。
はげしい波が、止まったかのようになる。
おそらく、「この一瞬が、永遠に続けばよい」という人間の願望をかなえるからだ。
スローモーションとは、「動き」への写真的(記憶的)願望なのではないだろうか。
ドラマ「風魔の小次郎」で意外だったのは、オープニング中の、「八将軍せいぞろいの
八分割カット」が存外に人気が高いことだった。「せいぞろい」は写真的で動的ではない。
「風魔の小次郎」は、「次々に死んでいく動き」の物語だが、ファン達が風魔を語るとき、
何人か欠けた途中経過ではなく、「全員そろっている」という「静的状況」を前提にする
ことが多い。(いわゆる二次創作、SSは、全員生きてるころの話が殆ど)
つまり、人々の記憶には、途中の動きではなく、「絵が一枚」あるのである。
集合写真を撮ったり、ドラマで人物相関図を書いたりするのも、日々状況の変わる「動き」を
全体写真でとらえたい願望ではないだろうか。
最近のCMがつまらなくなったのは、商品スペックをタレントが語るだけの、「一枚絵」のCM
ばかりになったからだ。ストーリーという動きをもつ「ムービー」は、複数の絵が必要で、
そこから「ストーリーという動き」を想像し、良しあしを判断するのは、訓練されたプロにしか
出来ない。制作決定に至る段階に素人が増えると、より「一枚絵」でものごとを理解したほうが
楽だ、という集合的無意識が働く。面白いかどうか、受けるかどうか、という判断基準ではなく、
集まった人全員が判子を押せる理解に達しているか、という基準に収斂されていく。
これは映画でも同じである。
何故原作ものがこうまで増えたのか?
「既にある一枚絵」で製作費を握る素人にプレゼンが行われるからである。
「一枚絵」には、動き全体が描かれていない。
つまり、ほとんどの一枚絵は、「動きのない(あるいは、未熟な)」物語になる。
次回では、「動きの図式化」に挑戦してみようと思う。
2013年08月05日
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