物語とは、動きだ。
頭の中に構築された設定が、次々に変化していく。この図式化を試みた。
一方、人物の動詞の表を書いていた。プロット表と呼ぶことにした。
このふたつを重ね合わせると、何が浮かび上がるだろうか。
かさねあわせ:風魔一話かさねあわせ.pdf
赤が動きの図式である。
ざっくり太いところが、状況が動いたところだと思えばよい。
ただし、最初の山奥、白凰学院の初出、誠士館の初出は、初期設定なので、
「動く」ところではない。(登場という動きではあるが)
それ以外の太いところを注目すると、
1 小次郎が白凰へ登場し、姫にほれ、チンピラを退治するあたり。
2 相手方にも夜叉がいることを告げ、大きな構造が動くとき。(MP:ミッドポイント)
3 地下バトルのクライマックス。
4 ラストの、大きく構造が動く予感。
などがあげられる。
「このどれにも主人公小次郎の動詞が関わっている」ことに注目されたい。
1、3は小次郎自身のスーパーアクション(これはアクションドラマだから)、
2、4は小次郎が言う、見るなどの(アクションに比べれば静的な)動詞である。
つまり、主人公の小次郎の動詞が物語を動かしているのだ。
風魔一話は、だから軽快で、小次郎の魅力が爆発している(ように見える)のだ。
物語を動かすとき、誰が動かすかに注目すると、リライトや構成の時によいだろう。
主人公が動かし続ければ、それは主人公の物語だ。
誰か他の人が動かし続ければ、それはその人の物語である。
敵が動かしたり、味方が動かしたりしてシーソーし、最後は主人公が動かせば、一応は主人公の物語だ。
逆に、「主人公とは、もっとも物語を動かす人」と定義できる。
小さく動かし続けても、重要ポイントだけを動かしてもよい。
日本人の書く物語は、私小説の影響をまぬがれえない。これを題材にした映画も数多い。
私小説では、なぜか、物語を動かすのは主人公でない場合が多い。
多くの時間で苦悩しつづけるだけだ。
たいてい、最後に一歩踏み出し、物語を解決の方向に動かして終わる。
苦悩(=停滞)9割、決断1割、という配分だ。
自分が何もしない言い訳を書くのが私小説であるといってもよい。
またはラストの行動の動機(というひと組のペア)を書くためだけに私小説はある、といってもよい。
これは、映画という物語にはとても相性が悪い。
「物語を動かす主人公」の定義と遠すぎるからだ。
再三批判するが、「風立ちぬ」では、主人公の二郎は物語を動かしていない。
(移動はする。東京から名古屋、ドイツ、欧州、軽井沢、名古屋と。しかし、物語を動かしてはいない。
物語を動かす動きは、菜穂子の実家に行く、療養所を抜け出した菜穂子に会いに行く、二か所だけだ。
ドイツ視察や軽井沢への傷心休暇は、次への導入としての存在であり、感情移入に値する物語性は薄い)
動機のないところに動きはなく、したがって物語もない。
主人公というものは、汗水たらして、動いて、動かし続けてなんぼだ。
小説はどうか知らないが、映画においては、私小説的主人公は愚図である。
映画は、三人称芸術である。一人称である「私」を主人公にしてはいけない。
三人称である、ということは、目の前にいる沢山の人間達を見たとき、
全体に最も影響をあたえ、最も目立つ動きをする人に注目がいく、ということである。
一番動くその人が、主人公であるべきである。
どれだけその人が内側に苦悩を抱えているかは、とりあえずどちらでもよい。
たいてい、最も深い苦悩がある。
つまり、主人公とは内側に最大の苦悩、外側に最大の動きを見せなければならないのだ。
スーパーヒーローでも活発でも行動的である必要もない。
文脈の上で、最も自ら動けばよいのだ。
(異物論では、その端緒を異物との出会いとしている。それで状況が動くことで、全体が動きだす)
なぜ動かないと面白くないのだろう。
映画は、movieだ。moveなのだ。たったこれだけなのだ。
moveするから、面白いのだ。moveしないものは映画ではないのだ。
moveするから、心がmoveするのだ。
(この「movieとはmoveである」説は、学生時代、加藤幹郎師匠にならったものだ)
動き説、これにていったんおしまい。
次は、「物語のおもしろさとは」について、書いてみようかと思います。
2013年08月07日
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