2013年08月08日

「物語の動きの図式化」補足

書き手にとって、「図式化」が誤解を生むかと思い、補足。
動きの図式化は、それだけで話を書いたことにならないことに注意。
図式だけをいくらキレイにかいたり、動かしたり、複雑な図式に挑んだりしても、
意味はあまりない。

僕の出した図式は、
「物語をみている途中、頭の中で出来上っている現在進行形状態」を絵にしたものだ。
実際のカットや挿絵には見えていない、架空に頭の中に出来上がるもの。
物語とは、頭の中にそのようなものをつくりあげる娯楽である。

ストーリーテラーは、客の頭の中に、架空の初期状態をつくり、それを更新し続ける。
ストーリーテラーにも、客の頭の中にも、同じ図式を共有する。
更新を共有し続け、おしまいを迎えたら、それは一枚の完成した絵となって停止する。

なにもあの図式があのフォーマット通りに頭の中に浮かぶわけではない。
にもかかわらず、物語を理解するという行為は、あのような図式を求められれば、
書きだすことが可能だ、ということだ。
(なぜ物語の感想に、図式を解説したり描写したものが多いのか。それは、自分の理解を示したいからだ。
多くの映画の間違ったポスターは、宣伝担当者の、物語の理解を示しているにすぎない)


面白い物語は、図式(状況の静止画)が容易に頭の中にうかぶようなもののことで、
しかもそれが簡単すぎずベタすぎず、
その更新が刺激的で興奮や期待をもたらすものでなければならない。
その更新の面白さそのものは、図式だけでは表現できない。


なお、「風魔の小次郎」はその後第二話で、夜叉八将軍と風魔一族がそろい、
誠士館と白凰学院の対立、その背後にいるそれぞれの忍び、夜叉と風魔の
「9(+1)対9」の大きな対立構造が完成する。
物語の大まかな動きは、彼らが闘い、一人ひとり減っていくことだ。
しかしながら、見る人の頭の中には、最初の対立構造が「静止画として」存在するのである。
これは、風魔という物語が、最初の構造を大きく変えない(ただ減っていくだけ)、
という特徴からも生じてはいる。

この大枠設定を表現するのが、実はオープニング映像なのだ。
近年、OPはタイアップの役割しか果たしていないが、
OPの元々の役割は、物語の大枠の構造を図示して、期待させることだと思っている。
小次郎と武蔵の対比、白凰学院バックの姫子と蘭子vs誠士館バックの夜叉姫と壬生と武蔵、
風魔たち、夜叉たちが上手下手からそれぞれやってきて剣(※木刀だけど)を交える、
本編には一度も出て来ない、そのような「象徴的な絵」(=物語の図式)を随所に入れ込んでいる。
(前にもふれたが、ファンが「風魔」(夜叉篇)という物語を想像するとき、この一枚絵の変形となる)

そのような構造を示す事で、一話から見ていない人には全体構造をわかりやすく、
一話から見ている人にはおさらいとして、各エピソードへの導入としているのである。

中盤戦での、「夜叉あと○人、風魔あと○人」という星取表は、
その静止画がどう変化したか、というパッチなのだ。

当たり前と言えば非常に当たり前な方法論なのだが、
最近の楽曲タイアップ前提のOP、EDでは、曲の雰囲気あわせになってしまい、
ドラマの構造や雰囲気をうまく示す絵を撮っていないように思える。
「売りたい曲を使える」という理由で押し付けるからそうなる。
曲が主ではない、主題が主なのだ。曲は、主題を歌うべきなのだ。
曲を売ろうと思うから間違いなのだ。物語を売ろうと思うべきなのだ。

さらに「風魔」では、中盤での聖剣登場とともにOPが変化し、
風林火山と黄金剣、これまでの名場面を強調、陽炎と壬生の離反を暗示させ、
物語が新たな局面に入ったことを示唆している。図式の更新である。


図式だけが面白さの正体ではない。
では、物語の面白さとは、一体どこから来るのだろう。
稚拙ながら、次に論じてみようと思う。
posted by おおおかとしひこ at 14:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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