2013年08月13日

物語の面白さって、何?2

前項では、静止画的な面白さについて述べた。
写真やポスターでも面白さの表現できるものだ。
いわば、絵画や写真や彫刻の面白さである。
「アイドルと暮らす」という例が、ちっとも面白い物語にならなかったことを思い出そう。

物語とは、動くことだ。あとふたつは、「動く」ことでしか表現できないものだ。


5 ストーリーの面白さ

ストーリーの面白さを、ここでは、「状況の動的変化」の面白さ、と定義しよう。
前回までで、風魔やおとぎ話を図示した。
状況を図示し、それらが新しく変わるさまを、物語が動くことだとした。

この動的変化の面白さが、物語の面白さなのだ。
最初は小さな変化→だんだん大きな変化→どんでん返しで全部が変化、とか、
最初に既成概念を大きくひっくり返して→少しずつディテールを設定してゆく、とか、
こういう変化をするだろうと思わせておいて→全く違う方へ変化して意外性をつくる、とか、
謎を振っておく→それが解決する→それだけでは解決しない新たな謎になる
すべての謎がとけるとき、今までの世界が180度反転する、とか、
色々なパターンがあるだろう。部分的には、音楽の展開と似ているかもしれない。

だいじなことは、「目先を変えて新鮮味を保つ」(停滞しない)こと、
「予測を裏切る」「ここはこうであって欲しい期待に順目で答える」ことを、
うまく注意を引き続けて動かしているかどうかだろう。

人物の魅力で、その動きの先が気になる、というやり方(感情移入)がポピュラーだ。
シチュエーションの面白さ、インパクトの強さでもある程度引っ張る事が出来るが、
その刺激がなくなると、次につなげることは難しい。

「引っ張る」ことではなく、引っ張り「続けられて」いるかどうかが、動きの面白さである。
一度ではなく、「数度」「流れで」出来ているか、が見極めるポイントだ。

ワンシーンも興味の持てない脚本は、プロの場合殆どない。
ありがちなのは、何か所かは面白かったが、全体はいまいち、という場合だ。
それ以外は、「停滞して」面白くなかったのだ。
全体でみると、動きが小さく、散発的であったのだ。
そういうものは、ドライブ感、ノリ、グル―ヴ、勢いがない脚本と言われる。
眠い、退屈、何やってるか分らない、途中で集中力が切れる、などネガティヴな言い方もされる。

それは、脚本を丁寧に図式化してみれば、一目瞭然となるだろう。
すべてが動き、動き続け(展開し)、
すべてが最初から計画されていたかのように、ひとつの完成画におさまる動きであるかどうか。
そうでない動きの脚本は、結局面白くない。


6 テーマの普遍性

人間にはふたつの相反する欲望がある。
「世界が壊れてしまえ」という欲望と、「この世界には価値があると思いたい」欲望だ。
面白い物語は、必ずこのふたつに触れる。これは僕のオリジナルの仮説である。

前者から入って後者で出る形が多い、と思う。

たいてい、異物との出会いが、この世界なんてなくなってしまえばいいのに、
という隠された、暗い欲望との出会いになる事が多い。
または、力はあるのに認められていないこの世界を壊してしまいたいというポジティブな欲望を、
異物との出会いがチャンスになることもある。

主人公は、この世界を壊す可能性を、異物との出会いに見出すのだ。
そののち、冒険の過程で、やはりこの世界はよいものだ、という本心にも気づく。
そこで、異物と出会う以前の世界のダメな所を殺して、
新たに良い価値を持つ世界になるように貢献する、
という結末を目指すのだ。

「成長」という物語に必要なものは、ここで自然にあらわれる。
だめな所がなくなり良くなるのは、世界の成長でもあり、内面であれば心の成長である。
物語では、世界は前半で(良くも悪くも)壊れかかり、後半では新しい秩序へと進み、
結果が静止画として完成するのである。

このふたつの欲望を、テーマ(異物論でも触れたが、テーゼという形で考えるとよい)という
軸が貫くと、いい物語になる可能性が高い。

これが、どれだけ普遍性を持つかで、テーマの普遍性が決まる。
何も戦争反対とか、大テーマを掲げる必要はない。
「高校生の娘の同級生に欲情する」「この家族には価値がある」ことをテーマとした
「アメリカンビューティー」を考えれば明らかだ。
「人間として、それは理解できる(たとえ特殊な状況だとしても)こと」が、普遍性だ。
日常に転がっている、よくあること、が普遍ではない。

雪山に落ちた飛行機事故で、人肉を食べて生き残る話(「生きてこそ」)は、日常にはない。
その極限で、神や信仰や生きる事とはなにか、を描くから、物語になり、
人間性という普遍的なテーマを浮き立たせることが出来るのである。

テーマに触れただけでは不十分だ。
そのテーマの中で、最も人間の真実に迫った描き方が出来ていたかどうかで、物語の出来は決まる。

具体例があれば、また追記したいところだが、今日のところはこの程度。



もしあなたが物語に詳しくなければ、脚本家や監督に、
直接この文章を見せて議論してみるとよい。仲介しているプロデューサーではダメだ。
直接物語を語る責任を持つ人と話すべきだ。
その人が、どう考えいるかを聞いて、それは価値のある物語かどうかを、判断するべきなのだ。

あなたは、その人のパトロンたるべきかどうかを、自分で判断するべきだ。
ほんとうの意味で、その物語の価値がわからなくても構わない。
中世の芸術家のパトロンが、全てを理解していたとも言えないだろう。
所詮、投資は博打だ。その数千万、億の金を、どう納得して投下するべきかなのだ。

映画が面白さが第一にも関わらず、物語の面白さが議論されないのはどういうことか。
それは、動くものを人間は記憶しがたいからである。
だから、テーマを、友情や愛や人間性など、「名詞」で語ってしまう。
動きを話すのだ。そこで何が動いているかを話すのだ。
ここであげたようなことで、動くものを、言葉でとらえてみてほしい。


勿論、書く者は、このようなことを考えていないとは言わせない。


次回は、この夏に小説を一本書いたので、その経験を踏まえ、
「シナリオライターにとっての、小説のススメ」みたいなことを書きます。
posted by おおおかとしひこ at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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