うまい物語というのは、
「Pではじまるのだが、結局Qを描いている」という表現が出来るのではないかと思う。
Pというのは、異物との出会いではじまった、ストーリー全体で解決すべき問題のことだ。
しかし、その問題を登場人物たちが、あれこれやっていくうえで、
主人公(たち)自身の真の問題Qの解決が、本当は必要なのだ、ということがあきらかになる。
例をあげよう。
癌にかかった祖父のために集まった家族が(P: 祖父の闘病と死)、
残された日の為に、今までの家族同士のわだかまりを克服し、次第に団結してゆく物語があるとする。
(Q: 家族のわだかまりの克服)
Pは、家族にとっての異物で、これを解決することが物語の端緒で、ゴールである。
しかし、これを解決するには、ほんとうの問題Qの解決が必要なのだ。
Pだけだと、外面的な、表面的な解決をすればよいだけだった。
(お金を集めたり、手術の方法を決めたり、入院の世話をする)
ところがQの解決は、人間の内面に関わる、深くて厄介な(だからこそ避けてきた)問題だ。
それが、Pの過程で表面に浮きあがって来るのだ。
Pを外面的問題、Qを内面的問題という。
もっと簡単なラブコメの例。
モテナイ男(Q: 内気で自信がない)が、ヒロインにひとめぼれ(異物との出会い)をし、
彼女のハートをゲットする(P)物語。
Pを解決するためには、Qを克服する必要があるのである。
よく出来た物語は、PとQの同時解決にもっていくように、ストーリーラインを工夫する。
クライマックスは、PとQの同時解決になると最もカタルシスがある。
Pが前半で解決、そのあとQが後半で解決、などはしない。
PとQは、表裏一体の問題であり、両者の止揚がすべてを解決するようにするのだ。
Qは内面的な話だから、形を持たない。
形を持つ外面的なPの解決が、内部の問題Qの解決になるように組んでいく。
だからクライマックスの解決がカタルシスたりえる。
異物除去という最初からの問題と、主人公(たち)自身の問題が、同時に解決するからだ。
Pは物語をはじめる言い訳のようなもので、実質はQを描くのだ。
Pは物語表面上を流れる問題、Qは物語の内部で動いている問題、とも言える。
映画版「風の谷のナウシカ」は、
風の谷と腐海に現れた、機械武装帝国との同盟戦争(P)を描きながら、
自然(腐海)との共生を描く(Q)物語である。
本来Qは、人間の内面の問題を描くのだが、ナウシカの内面はあまり強調されない。
だが、Qに直結する重要なシーンは、彼女の最もプライベートな部屋での、
「腐海の植物を育てていた」シーンだ。
彼女の内面的個人的考え(腐海は、放射能汚染をきれいにしている)こそが、
物語の図式的構造をひっくり返すどんでん返しとなり、
クライマックスでの腐海の象徴、王蟲との会話へと至るのである。
物語の静止画的、外面的魅力は、たいていPに現れる。
ナウシカでは、腐海のシーンや核戦争後の世界観、戦争のシーンや巨神兵復活のシーンである。
逆に、Qの魅力は、予告編やスチル写真で語られることはない。
Pはたいへん造型的に魅力的だが、そのデザインを除いて図式だけで見ると、
人類がこれまで幾多と描いてきた国家間戦争物語と同一だ。
実質は、Pという動きが面白いのではない。
Qの動きが面白く、それがPという状況に乗っかってゆくから面白いのである。
戦争をP、人間ドラマをQとするのは、「戦争を舞台にした物語」のポピュラーなパターンである。
(戦争そのものを描いたものは、少ない。きっとQのようなものが見いだせなかったのだろう。)
「天空の城ラピュタ」は、血沸き肉踊る冒険活劇Pを強調するあまり、
主人公パズーの内的問題Qに比重が置かれなかった例である。
彼の父の発見、天空の城は本当にあった、というストーリーラインでしか、
彼の内面は触れられることはない。
(ただ、冒頭に描かれた朝の孤独を、ヒロインシータが今後癒すであろう、
という暗示がQを外挿してはいる)
またもや「風立ちぬ」を悪例にとるが、
Pはゼロ戦開発(または、美しい飛行機をつくる)の物語を予感させた。
静止画的、外面的魅力はたっぷりだ。
サバの骨のエピソード、開発工場やドイツの技術、夢の中の飛行機、どれも魅力があった。
そこへ菜穂子の白血病というQが加わる。(実質、遅いタイミングだ)
面白い物語は、PとQのクライマックスでの止揚である。
そうなっていない。菜穂子の死は、Pと関係ない。ばらばらの物語が、ただあっただけ。
ラストシーンで無理矢理つなげた感満載だ。
あなたの書く物語の、PとQは何か?
あなたが読む物語の、PとQは何か?
それはうまく連動し、表裏一体へ変化してゆき、絡んで、クライマックスに止揚するだろうか?
しかも、それはテーマと直結しているか?
そうなっていないなら、結構まずい。
ナウシカは、PもQもうまい。その止揚がクライマックスになっている。
ラピュタは、Pがすごくいい。一応回収しているがQは弱い。
風立ちぬは、Pの絵はいいが話がない、QはいいけどPとは別の話で、両者の止揚がない。
どのレベルにいるか、考えてみるとよいだろう。
物語の動きを評価するときも、PとQの動きについて論じてみるとよい。
Pの話しか出来ない奴は、女を化粧でしか判断出来ない男と同じである。
さて、ここまで書いて気づいたのだが、
Pをモチーフ、Qをテーマという言葉で言い換えられるかも知れない。
モチーフとは、絵で描く対象、テーマとは中身のこと、
というニュアンスで考えれば、
風の谷のナウシカは、風の谷と腐海と大国の戦争をモチーフに、
自然との共生をテーマにした物語、と言えるかも知れない。
モチーフもテーマも、歴史的定義も知らず使ってみたが、
これでしっくり来る人はそれでもよいかも知れない。
2013年08月14日
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