脚本のトレーニングには、作劇をするべきだ。
作劇をするには、脚本より小説を書いてみるとよい。
理由その2。小説は、シナリオより自在性が高い。
最終的にはシナリオの作劇のトレーニング用に、小説という形式を利用する、
といういわばよこしまな目的なので、
真面目に小説を志す人は、以下を勘弁してもらいたい。
同じ物語を書くなら、シナリオもより小説のほうが楽なのだ。
シナリオになくて小説にあるものは、「地の文」である。これが実に強力な兵器なのだ。
シナリオにある表現要素は4つだ。
1 柱(シーン。場所と時間と天気)
2 セリフ
3 芝居(セリフ以外の)
4 小道具
それに画面外の要素、
5 ナレーションやタイトル、画面内画面(テレビ、記事など)
を足しても5つである。
ト書きは、地の文ではない。1と3を具体的に書くだけのものである。
地の文は、シナリオに比べ、風景描写、心理描写、時間の描写などが可能だ。
1 風景描写
シナリオの場合、実際に撮る前提の為、あまり細かい表現はせず、
「美しい湖」「廃墟」「放課後の教室」などのように簡潔に書くのが習慣だ。
その通りに撮れるかは実際の場所によるし、想像以上の場所が見つかることもあるからだ。
一方、小説はそこで完結しうる表現まで高めて書くことが出来る。
長さの制限もない。劇の進行を止めて、好きなだけ書くことも出来る。
シナリオでは、劇の進行を止める分量で書いてはいけない。
2 心理描写
とくに一人称の地の文では、いくらでもその人の気持ち、思考、心の声、思い出、
世界の把握の仕方、などを書きこんでいくことが可能だ。
対して、シナリオでは、セリフと役者の動作だけで表現しなければならない。
多くを説明せず、セリフと動作だけで想像させなければならない。
「この人は不満だ」と感じさせることは可能だが、
「この人は、『世界の中心に私がいないのは、私が小学校の時から
積極的になれなかったせいである』と思っている」と感じさせることは不可能だ。
「世界は彼女にとって魅力的だった。」という小説の一文を、
シナリオの表現に一対一に置換することは、まず無理だろう。
小説作法的には反則気味だが、地の文では、視点の移動が可能だ。
「Aは「○○」と言いながら、△△と考えていた。
Bは「△△」と返したが、実は××するつもりだった。」
をシナリオで表現する方法はない。
シナリオでは外面をカットバック出来ても、内面までカットバック出来ない。
(タイトルやナレで無理やりには可能だが、無理やりだ)
「二人は無言だった。Aは○○と思い、一方△△とBは考えていた」もシナリオでは書けない。
(これをするなら、以前のシーンでそれぞれの意図がセリフや動作で外に出るように
描いておき、次のシーンで「…」とにらみ合わせるしかない)
3 時間の描写
ト書きは現在形で書く。一方地の文は過去形で書く(標準が過去形で例外に現在形もある)。
これが最大の差だ。
シナリオは、「カメラが今うつすもの」を書く。その今の積み重ねで物語を表現する。
地の文は過去形なので、「現在見えるものだけを書く」というシナリオのルールから
逸脱することが可能である。
例1: 彼は彼女を抱きしめた。愛していた。
はシナリオでも可能だ。「彼は彼女を抱きしめる。いとおしそうに。」とでも書けばよい。
例2: 彼は彼女を抱きしめた。愛するふりをして、殺すつもりだった。
は、これほど簡潔にシナリオで書くのは不可能だ。
芝居で考えるなら、いとおしく抱きしめる動作自体は、例1と変わらない。
「殺すつもりだが、愛するふりをする」という芝居を、芝居の指示のように書きなおす。
「いとおしく抱きしめる。しかし彼女から見えない彼の顔は、醜く殺意を浮かべる。」などだ。
もっと分りやすく、
「いとおしく抱きしめる。が、彼の後ろ手には包丁が握られている。」などのように、
殺意を小道具で表現するやり方が普通だ。
何故なら、「芝居にこめるニュアンスはひとつ」だからだ。
「いとおしく殺意をこめて抱きしめる」芝居は出来ない。
「彼女はイエスともノーともとれる返事をした」芝居は出来ない。
無理やりやると、「どちらでもない、曖昧な返事」になる。
それどころか、「やる気があるのかないのか分らない、
返事する気もあるかどうか分らない、これが返事かどうかも分からない」ものになる。
違うベクトルのものを、芝居では合成できない。合成すると0になり、どの解釈も出来ないものになる。
(能の表情は、それを逆に使う)
芝居で出来るのは、「ひとつの」感情である。
映画では、相反する感情を、文脈でつくる。シーンを割るのだ。
直前のシーンで、彼の殺意を表現する。
直接的でもいいし、彼女を殺すのもやむを得ないエピソードでもいい。
刃物を準備しているシーンでもいい。
「殺意」というひとつの感情が、強く芝居できる場面である。
そこで、次のシーンで、彼は彼女をいとおしく抱きしめるのだ。
「愛している」というひとつの感情の強い芝居をする。
文脈によって、「彼は彼女を殺すつもりで、愛しているふりをしている」という意味になる。
(彼の芝居やカット割りによっては、彼は殺意と愛の狭間で迷っている、という表現にもなる)
こうやって二重の意味をつくる。
「ひとつの感情の芝居」に、文脈で複数の意味を重ねていくのが、
現在形の積み重ね、というシナリオのやり方なのである。
「彼は彼女を抱きしめた。愛するふりをして、殺すつもりだった。」
という芝居が出来る名優はいない。殺すつもり、愛しているを表現できる名優はいる。
シナリオでは、そのひとつひとつの意味を、文脈で統合していくのだ。
小説では、ここまで考えなくてよい。
ただ、「彼は彼女を抱きしめた。愛するふりをして、殺すつもりだった。」と書けば良い。
言い方を変えると、小説では、時間を重ね合わせることが出来る。
例3:
彼は夜の高校に忍びこんで、マウンドの上に立った。
それは部活では、ついにユニホームを着て立つことの叶わなかった場所だった。
スーツのネクタイを緩め、彼はピッチングのフォームをとった。
は、シナリオでは表現できない。
小説では、「現在、過去、現在」という時制がすべて過去形で重ねあわされている。
だから正確には「過去、大過去、過去」とでも書くべきか。
シナリオでは「現在、現在、現在…」と現在の連鎖にする必要があるので、
これを表現するのにひと工夫必要になる。
1 過去を省いて現在だけで表現
・「俺は部活で、ついにここに立てなかった」とナレか独り言でいう。ちょいダサ。
・たまたま同級生や元監督が居合わせて、何やってんだよ、いやあ、と他人に説明させる。御都合。
2 前説とあと説
・前のシーンで、部活の話をしておく(前振り)。夜忍びこみ、マウンドでピッチのフォーム。
・夜忍びこみ、マウンドでピッチのフォーム。あとのシーンで、部活の話になり、
あの時はそうだったのか、と観客に分らせる。
3 小道具で暗示する
幼い頃かいた「ピッチャーになりたいです」という絵を使う。
マウンドの上で見てもよいし、それを見ている部屋のシーンをカットバックしてもよい。
サラリーマンであることから、なれなかったことは想像できる。
(部活でなれたかは分らない)
4 カットバック(現在と過去を同時進行)
現在:夜忍びこむ。マウンドの上に立つ。
過去:部活でこのマウンドを眺めるだけのその男。
現在:そのマウンドで感慨深く投球フォームをはじめる。
過去:マウンドで投げているレギュラーを見ながら、ベンチの脇で投球フォームをする。
現在:その思いで、腕を振り下ろす。
他人への説明や御都合がないので、多分一番ポピュラーな方法だろう。
欠点があるとすると、役が二人必要になることだ。
男が20代であればぎりぎり過去を演じさせることも可能だが、40、50の役者には厳しい。
その場合、過去に出演しているレギュラー落ちの少年が、その男の過去であることを、
技量的に暗示する必要が出てくる。
小説は、全て過去形で書く。だから、過去を重ね合わせることが可能だ。
シナリオは、現在形で書く。現在しか、その場にはない。
小説は、思いや風景も、地の文で重ね合わせることが可能だ。
シナリオでは、それをひとつずつ分離して、文脈を形成し、
ひとつの感情で芝居しつつ、それが複数の意味を同時に現す場面をつくらなくてはならない。
シナリオでこれらの技量がない人は、まずは「作劇の数をこなす」意味では、
小説を書いたほうがトレーニングになる。
いずれ、それをシナリオ的に書きなおす修正トレーニングが必要だ。
それがシナリオで的確に書けないなら、それはそもそもシナリオ的な話ではなかった。
そのような話は小説には沢山ある。
そのことが分って来ると、シナリオ的って何だろう、ということが分って来るだろう。
さらに。
小説では、テーマの描き方すら、シナリオより楽かも知れない。この話、つづきます。
2013年08月15日
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