2013年08月16日

小説のススメ3

小説の地の文は、シナリオの表現より強力だ。
「物語の面白さって、何?4」で、PとQの話をしたと思うが、
地の文は、Qの描写が得意なのだ。


物語とは、外面的物語の進行P(異物との出会いから、問題の解決まで)を描きながら、
真の内面的問題Qを描くものだ。

シナリオには地の文がない。
芝居とセリフと、物言わぬ小道具で表現する。(少しだけならナレーションの力を借りてもよい)

内面の問題は、これらではなかなかうまく表現できない。
心の声や思考は、とくにシナリオが不得意な分野だ。
(芝居なら、独り言を言う場面は、なくはない。
ナレーションを被せて心の声を表現するのは、昔の香港映画に多かった。
アニメのナレーションの考え方を実写に重ねた、「私の優しくない先輩」
という失敗作は、ナレーションの多用を戒める作品だ)

したがって、シナリオでは独特の迂回をする。
Pを扱いながら、意味としてQのことを言っているのだ、と意味を二重にするのだ。
PはQのメタファー(暗喩)になるように、物語を持っていくのである。

例をナウシカにとろう。
王蟲を戦争の道具とした事件、その暴走をナウシカが体を張って止めた。
王蟲との対話により、王蟲は去る。大海嘯は回避された(Pの解決)。
これは自然との共生を暗示する(Qの解決)。

Qは、人間の内面や社会の仕組みの問題のことが多い。
つまり、抽象的な言葉でしか話せない。

具体的な、セリフ、芝居、小道具でしか表現できないシナリオ形式では、
この表現が豊かに出来ない。
あるまとまった抽象思考をセリフにすると、下手すると演説になってしまう。
(「キャシャーン」を見てうんざりせよ。
チャップリンの「独裁者」ですら、現実の戦争批判をするときに、「演説」という形式を
借りずには表現できなかった。ユダヤ人がヒットラーにそっくりで入れ替わる、という
仕掛けをしているにも関わらず。
「殺人狂時代」では、もっとシンプルに、死刑台に送られる男の最後の一言としての
「演説」であった)

Qの結果がPの結果に一致するように、Qの象徴がPの要素になるようにする。
ナウシカの優秀なところは、
王蟲の撤退=愚策によって起こった大海嘯という人類滅亡の回避(Pの結末)
=共存(Qの結末)という一枚絵になっているところだ。
ここがカタルシス(王蟲の目がすべて青くなって去ってゆくところ)となるように、
全てをつくっている。

一方、小説では、地の文によって、
主人公の思索、思想、哲学、世界の構造の把握、批判、もしかしたらこうなのではと思うこと、
発展して別のことに考えが至る、などは、Pと関係なく書き連ねることが出来る。
「現在」で進むシナリオではPの進行を止められないが、
小説はPの進行を中断し、これらのこと、Qのことを気が済むまで書いてからPに戻れる。
つまり、脱線できる。

司馬遼太郎の小説にはうんちくが多く、池波正太郎には食べ物の話が多く、
押井守にはミリタリーや犬の話が本筋Pより多いのは、脱線しているからだ。
これらが、彼らにとってのQなのだ。
Qは個人的関心ごとになりがちだ。内面の話から、作者の内面に滑り込んでしまったのだ。
個人的に「書きたい」と欲望する部分でもあるし。

シナリオでは、この場合にこれを書くべきか、という判断基準がある。
110枚という、小説から見たらあまりにも短い枚数では、脱線する余裕はあまりない。
脱線して本筋が疎かになっては本末転倒だからだ。
(むしろ脱線の方が面白くて、脱線メインになっていたのが、本来の意味でのサブカルチャーだった)

小説では、地の文によってPからQへ分離・脱線させることが可能である。
シナリオでは、具体のPが抽象のQのメタファーになるように仕組んでいき、
具体的Pの解決が抽象的Qの解決を意味するようにする。

地の文では「父への尊敬は、回復した。」というラストを書くことが出来るが、
シナリオでは芝居可能な具体表現にする必要がある。

同じ物語を書くなら、技量がないなら、小説の方が楽だ。
勿論、小説専門でやっていく人には失礼な物言いである。
あくまでシナリオ作家の、作劇習作としての小説、という位置づけで考えてもらいたい。


さあ、シナリオで行き詰っている諸君。掌編を沢山書いてみよ。
それでも行き詰るなら、それはそもそも「作劇」が出来てないということだ。

あらすじをつくったり、テーマを書いたり、どんでん返しをつくったりしてみよう。
面白くなるだろうと確信した10本のあらすじが出来たら、
シナリオや掌編に書いてみよう。どうしてもシナリオに起こしにくいなら、一端小説にしてみよう。
完結したら次の話を書き、またここに戻ってきてシナリオバージョンにすることを改めて考えよう。
その往復の経験が、「シナリオにふさわしい物語はどういう形をしているか」という
「車庫入れ感覚」のようなものが身についてくる。
そうこうしているうちに10本のシナリオが出来たら、それはあなたの宝になる。
30分、60分、90分、120分の頂に挑むときがやってくるだろう。
posted by おおおかとしひこ at 20:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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