小説の地の文は、シナリオの表現より強力だ。
「物語の面白さって、何?4」で、PとQの話をしたと思うが、
地の文は、Qの描写が得意なのだ。
物語とは、外面的物語の進行P(異物との出会いから、問題の解決まで)を描きながら、
真の内面的問題Qを描くものだ。
シナリオには地の文がない。
芝居とセリフと、物言わぬ小道具で表現する。(少しだけならナレーションの力を借りてもよい)
内面の問題は、これらではなかなかうまく表現できない。
心の声や思考は、とくにシナリオが不得意な分野だ。
(芝居なら、独り言を言う場面は、なくはない。
ナレーションを被せて心の声を表現するのは、昔の香港映画に多かった。
アニメのナレーションの考え方を実写に重ねた、「私の優しくない先輩」
という失敗作は、ナレーションの多用を戒める作品だ)
したがって、シナリオでは独特の迂回をする。
Pを扱いながら、意味としてQのことを言っているのだ、と意味を二重にするのだ。
PはQのメタファー(暗喩)になるように、物語を持っていくのである。
例をナウシカにとろう。
王蟲を戦争の道具とした事件、その暴走をナウシカが体を張って止めた。
王蟲との対話により、王蟲は去る。大海嘯は回避された(Pの解決)。
これは自然との共生を暗示する(Qの解決)。
Qは、人間の内面や社会の仕組みの問題のことが多い。
つまり、抽象的な言葉でしか話せない。
具体的な、セリフ、芝居、小道具でしか表現できないシナリオ形式では、
この表現が豊かに出来ない。
あるまとまった抽象思考をセリフにすると、下手すると演説になってしまう。
(「キャシャーン」を見てうんざりせよ。
チャップリンの「独裁者」ですら、現実の戦争批判をするときに、「演説」という形式を
借りずには表現できなかった。ユダヤ人がヒットラーにそっくりで入れ替わる、という
仕掛けをしているにも関わらず。
「殺人狂時代」では、もっとシンプルに、死刑台に送られる男の最後の一言としての
「演説」であった)
Qの結果がPの結果に一致するように、Qの象徴がPの要素になるようにする。
ナウシカの優秀なところは、
王蟲の撤退=愚策によって起こった大海嘯という人類滅亡の回避(Pの結末)
=共存(Qの結末)という一枚絵になっているところだ。
ここがカタルシス(王蟲の目がすべて青くなって去ってゆくところ)となるように、
全てをつくっている。
一方、小説では、地の文によって、
主人公の思索、思想、哲学、世界の構造の把握、批判、もしかしたらこうなのではと思うこと、
発展して別のことに考えが至る、などは、Pと関係なく書き連ねることが出来る。
「現在」で進むシナリオではPの進行を止められないが、
小説はPの進行を中断し、これらのこと、Qのことを気が済むまで書いてからPに戻れる。
つまり、脱線できる。
司馬遼太郎の小説にはうんちくが多く、池波正太郎には食べ物の話が多く、
押井守にはミリタリーや犬の話が本筋Pより多いのは、脱線しているからだ。
これらが、彼らにとってのQなのだ。
Qは個人的関心ごとになりがちだ。内面の話から、作者の内面に滑り込んでしまったのだ。
個人的に「書きたい」と欲望する部分でもあるし。
シナリオでは、この場合にこれを書くべきか、という判断基準がある。
110枚という、小説から見たらあまりにも短い枚数では、脱線する余裕はあまりない。
脱線して本筋が疎かになっては本末転倒だからだ。
(むしろ脱線の方が面白くて、脱線メインになっていたのが、本来の意味でのサブカルチャーだった)
小説では、地の文によってPからQへ分離・脱線させることが可能である。
シナリオでは、具体のPが抽象のQのメタファーになるように仕組んでいき、
具体的Pの解決が抽象的Qの解決を意味するようにする。
地の文では「父への尊敬は、回復した。」というラストを書くことが出来るが、
シナリオでは芝居可能な具体表現にする必要がある。
同じ物語を書くなら、技量がないなら、小説の方が楽だ。
勿論、小説専門でやっていく人には失礼な物言いである。
あくまでシナリオ作家の、作劇習作としての小説、という位置づけで考えてもらいたい。
さあ、シナリオで行き詰っている諸君。掌編を沢山書いてみよ。
それでも行き詰るなら、それはそもそも「作劇」が出来てないということだ。
あらすじをつくったり、テーマを書いたり、どんでん返しをつくったりしてみよう。
面白くなるだろうと確信した10本のあらすじが出来たら、
シナリオや掌編に書いてみよう。どうしてもシナリオに起こしにくいなら、一端小説にしてみよう。
完結したら次の話を書き、またここに戻ってきてシナリオバージョンにすることを改めて考えよう。
その往復の経験が、「シナリオにふさわしい物語はどういう形をしているか」という
「車庫入れ感覚」のようなものが身についてくる。
そうこうしているうちに10本のシナリオが出来たら、それはあなたの宝になる。
30分、60分、90分、120分の頂に挑むときがやってくるだろう。
2013年08月16日
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