2013年08月24日

実写ガッチャマン感想、批評

感想: 0点。
ヒーローのことも正義のことも悪のこともSFのことも、
映画のことも人間のことも知らない人たちがつくった、二時間のうんこ。
スタッフががんばっているのは分かるが、設計図がだめなので効果的でなく、
全体の予算配分と力点も悪い。

企画(ガッチャマンを実写化しようとした仕掛け人。
各方面の人集め、金集め、こんな内容で、という物語の概要を考えた人)、
脚本(細かい設定とストーリーを考え、陳腐な台詞を書いた人)、
監督(最終的な内容責任者)は、いますぐ斬首して、
吉田竜夫とアニメガッチャマンに夢中になって正義の心を持った者たちに詫びよ。

以下、まじめに批評:

映画の最も原始的で、一番の醍醐味は、
主人公の感情を共有する楽しさだ。
主人公の喜びや悲しみを我が事のように感じ、
ハッピーエンドに拳をつきあげて喜ぶ楽しみ。

リアルな映画だけがもつ、感情移入という楽しみである。

恋愛映画なら、主人公の恋のときめきを味わい、苦しさも味わい、
幸せなエンディングにうっとりする。
冒険ものなら、主人公の命の危険にハラハラし、
脱出の困難さを一緒に味わい、うまくやってのけるラストに快哉を叫ぶ。
ヒーローものなら、悪を憎む主人公の気持ちと一体になり、
命の危険を味わいながらも、正義を遂行する主人公にしびれ、
悪は栄えないラストに胸がすく思いを味わい、リアルな世界もそうあってほしいと願う。

実写ガッチャマンは、ヒーローものというジャンルの映画だ。
はたしてそのような感情移入があったか。否である。

ケンに感情移入出来たか。
恋人の死のトラウマに苦しみ、その浄化を得るケンの物語に、
ケンと同じように苦しみ、ケンと同じように南部博士に嫌気が差し、
ケンと同じようにナオミとの決着にカタルシスを得たか。
否である。
実につまらない主役であった。

正義はなされたか。
否である。
悪を憎んだか。
否である。

つまりは、この映画は、ヒーローものというジャンルでも失格であり、
映画という感情移入の娯楽としても失格である。

(ちなみに、僕の書いた版ガッチャマンは、3/29の記事で公開済み。
比較して論じられたい。ここに貼っときます:ガッチャマンプロット.pdf


映画は、残酷な人間の心と、理想的な人間の心、両方を満たさなくてはならない。
ヒーローものとは、正義が悪を殺す場面で残酷な心を、
正義がなされるという大義名分で理想の心を満たすジャンルだ。

近代法以前は、悪は殺すのが常だった。
悪なら、どんな残忍な殺し方をしてもカタルシスがあった。
なぜなら悪だからだ。
たとえ首が飛び、内臓が飛び散っても、正義がなされ悪が滅びる限りにおいて、
それは残酷な人間の心を満たし、なおかつ理想の心も満たすのである。

時代劇、西部劇、中世の魔法物語、ナチスが悪の戦争もの。
どの「近代法制定以前」の物語も、そうやって、
「正義が堂々と悪を殺す」場面を描く。


ところが、「現代のヒーローもの」では、それが出来ない。
たとえ悪であっても現代法の下では、惨殺は許されず、
司法で裁くことが人類の了解事項だからだ。
どんなに醜くても、どんなに思想がおかしくても、
基本的人権でそれは保護することにしたのだ。

これは、ヒーローものにとって最悪の足かせである。
なぜなら、胸をすくような、「正義が悪をついに殺す」場面が描けないからだ。

しかしその場面を描かなくては、ヒーローもののカタルシスはない。
ヒーローものとは、「正義が悪をやっつける」ジャンルだからだ。


だから、ヒーロー映画をつくる人たちは、巧みにこの足かせをくぐり抜け、
その場面を描ける「理由」を見つけている。
すなわち、「現代のヒーローもの」とは、
「悪を殺してもよい理由の創作」を競うジャンルなのである。

例1: ナチスの残党なら、問答無用で殺せる。
 戦後つくられた多くの映画では、ナチスだから殺せ、が出来た。仮面ライダーですら。
 21世紀では、リアリティがない。

例2: 敵を人間でなくしてしまえば、殺せる。
 VFXの発展により、「宇宙人」の侵略が描けるようになった。「ID4」が最初だったか。
 最近だと、「ロサンゼルス決戦」があった。
 宇宙人には人権がないから、打ち放題だ。
 かつては異民族を打ち放題して、異教徒を打ち放題して、
 インデアンを打ち放題して、ジャングルの土人を打ち放題していた「正義」は、
 彼らに人権を認めたので打ち放題できなくなった。
 新たなインデアンを、ハリウッド映画は発見したのだ。
 だが、宇宙人に人権を認めればこの手も使えなくなるだろう。

 宇宙人でない場合、特殊な能力で「人間でなくなってしまう」怪物になれば、
 これは打ち放題してよいことになっている。
 アメコミヒーローの「敵」(ヴィラン)は、元人間で、特殊な力で怪物になり、
 怪物になれば殺してよいルールになっている。
 「X-MEN」では、ミュータント同士が殺し合う。人類から見てミュータントに人権はない。

例3: 殺すまではいかないが、「天誅」をして、しかるべき組織(警察、マスコミなど)へ引き渡す。
 殺さない場合、だいたいこう。「スパイダーマン」はご丁寧に糸でしばっておく。
 テロリストを相手にする映画でも、危険な首謀者以外の協力者は、
 国際政治の判断を待つのが普通。

例4: 私刑の形にする。警察や権力は見てみぬふりをする。
 「スケバン刑事」「必殺仕事人」など、日本のヒーローに多い。
 元々日本のヒーローは、警察など当局に所属しない、アウトローが多い。
 汚い仕事は身分の低い者や、死んでもよい者がやる伝統かも。
 「ワイルド7」など、元死刑囚が司法で裁けない悪を惨殺する話は多い。
 「風魔の小次郎」もご他聞にもれず、忍びだから殺してもよい。

例5: あまりにも悪がひどいので、殺してもやむなし。(正当防衛の言い訳は入れる)
 銃が出てくるとこれは成立する。
 「ダーティハリー」以降、アクション映画のお約束だ。
 「キックアス」では、「現実は、漫画で見る夢想の善悪ではない」というリアルを描き、
 キックアスにきちんとバズーカを撃たせた。


近代以降、敵も人間であることが明らかになった。
敵から見れば、われわれが悪なのだ、という考えである。
「正義の敵は悪ではない。もうひとつの正義だ」という相対主義だ。

これが現代ヒーローものの足かせになる。正義が悪を殺せない。
そこで、「悪は殺されても仕方がないほど悪いやつだ」というのが主流になった。

「大事な人を殺されての復讐」がポピュラーだ。
その大事な人を失うことにどれだけ感情移入できるかが、脚本の肝のひとつだ。

「スパイダーマン」では、おじが殺される。
地下プロレスで、強盗を見逃した。
地下プロレスの払いが悪いプロモーターから、強盗が金を奪うのをざまあ見ろと見逃した。
その強盗たちが、逃走中たまたまおじを殺したのだ。
自分が見逃さなければ、大切なおじを殺されることはなかった。
しかもそのおじは、「偉大なる力は偉大なる責任を伴う」と言っていたのに。
これがピーターが正義をなす理由である。

また、「スパイダーマン2」では、
恋愛が大事でスパイダーマンを辞めたピーターが、
人間として、火事に巻き込まれた子供を、命がけで助ける。
正義をなしたと満足していたら、もう一人死んだことがわかる。
スパイダーマンなら救えた。
その後悔が、ピーターが正義をなす理由だ。



ヒーローものは、悪を憎んではじめて成立する。
ヒーローものは、強大な力を悪に使わず正義に使う理由がある。
ヒーローものは、力を奮うべきときのみ、力を使う。

このみっつがきちんと創作されて、矛盾がないときのみ、
「正義が悪を殺す」場面は、熱く、はらはらし、悪が倒れるときのカタルシスがある。



さあ、「ガッチャマン」を見てみよう。

1 ヒーローものは、悪を憎んではじめて成立する?
 人類の半分が死んだらしいが、よその国のことなので実感なし。
 ジュンはたのしげに買い物してるし。その服、どこでつくってんの?
 人類の半分を死に追いやったギャラクターを、誰も憎んでないの?
 人類滅亡への危機感は? 「絶望の中から、希望の5人が現れる」んじゃないの?
 戦争孤児がたくさんいた? ぜんぶよその国のことだから、関係ないの?

2 ヒーローものは、強大な力を悪に使わず正義に使う理由がある?
 なかった。石の力は、軍隊に匹敵する。それを自衛隊を壊滅させることにも使えるはず。
 適合者は、結託して新しい勢力になれたんじゃね?
 ケンはなぜ人類側につく必要があるの?
 愛する人のためでもないでしょ?

3 ヒーローものは、力を奮うべきときのみ、力を使う?
 石の力の定義が不明なのでよくわからない。
 スーツは戦闘用プロテクターだとしたら、普段から空飛べるよね?
 (子供のころはヘッドギアだけで飛んでたし)
 スーツは石の制御用ではないはず。だって制御できる力なら、解明されてるはずだし。
 謎の力なんでしょ?
 適合者が他にもいる設定から、Gスーツ着用者は、各国にもいることが予測される。
 いつその力を使えるの? 街中で強盗が出たら使う?
 好きな子と空中散歩デートに使う? でないとしたら許可制? 誰の許可?
 そもそも世界の半分が死んだのに、なぜもう17日で世界滅亡せず13年たったの?
 日本政府の現在の状態は? 経済は? 南部博士は税金で食ってるの?
 国際連盟とかはどうなってんの?

すべてが疑問符だらけだ。
細かいところをいちいち設定しろと言っているわけではない。
「シンプルに設定してくれ」と言っている。
こんなに疑問が噴出しないように、うまく見せてくれ、と言っている。
一発ですべてわかるような、シンプルな背骨を一本通せ、と言っている。



細かいあとづけの説明が必要な基本設定は、設定ではない。
増築改築しなければいけない骨格は、貧弱な骨格である。
引き算しても建物が立つように、基本骨格は丈夫に強く大きくつくるものである。



主人公論:

PとQの話をしよう。
(これについてはこのブログの脚本論を一から読んでね)

Pは、世界の半分を殺した謎の侵略者ギャラクターをたおすこと。
それには、謎のシールド機能を解明して現存兵器を有効にするか、G粒子で突破すること。
(ん? 衛星砲ってG粒子じゃなかったっけ。G粒子が制御可能なら、
それでビーム兵器を量産すればいいんじゃね?
ガッチャマンだけがG粒子を使えるんじゃなかったけ?)
そのために、亡命者イリアを確保し、ギャラクターの機密情報を得ること。

Qは、なに? とくに主人公ケンにまつわることのはず。
第一幕では設定されていない。
中盤以降、恋人?ナオミの死があるが、それが彼の任務至上主義に
影を落としているだけで、
ケンの劇的動機は存在しない。
ケンは、「なにがあってもギャラクターを殲滅したい」と思っているわけではないし、
「○○がどうしてもしたい」というものもない。
だから彼の意志がない。
だから障害が存在せず、障害を乗り越えていない。だから成長していない。
(1000万人が大事か1人が大事かは、問題ではない。両方救えるなら救うべき。)

さて、ここで明らかになった。
ケンは、ロボットなのだ。自分の意志がないのだ。
自分の意志がないものは、人間とは呼ばない。
人間を描くのが映画である。だから、これは映画ではなかった。
ロボットがCGで動いてただけだ。松坂桃李は、ロボット役だったのだ。

Pの問題をただ遂行した、これはロボットの話だったのだ。
内的葛藤のような、ナオミの死がトラウマのように書かれていたが、
それはギャラクターを倒すPとは関係がない。単なる過去だ。
これを乗り越えればPが解決するわけではない。彼の個人的迷いがなくなるだけだ。

その迷いなどに、われわれ観客は興味がない。
興味が起きるような物語も用意されていない。
幼馴染設定と、ジョーのプロポーズを横目で見ていただけだ。
それだけで感情移入するほど、面白い話ではなかった。
われわれは人間としてのケンに興味が持てない。
彼が悩もうがナオミを刺そうが、痛みはまるで感じない。


だから、退屈なのだ。

なぜ南部博士は変なスーツを着ていたり(回想でも同じスーツだった)、
命令を出す権限があるのだろう、その命令をきく義務がガッチャマンになぜあるのだろう、
なぜ南部博士は不条理な命令をするのだろう、
すべては南部博士の自作自演劇なのではないか、大ボスは南部博士?
とか、余計なことばかり考えてしまう。

ジュンはなんであんなにテンションが高いのだろう、
ジンペイはどこでパソコン技術を習得したのだろう、電源はどこから供給してるのだろう、
原発をギャラクターは攻撃しただろうか、
リュウは地方出身だが、そんな地方にスカウトが行くほど組織力があるのか、
そもそも適合者はどうやって探したのだろう、
ジョーの前髪が邪魔だ、AVですら顔が見えるように女優が髪をかきあげるのに、
あの前髪切ったらつるつるになるぞ、
ケンはなぜギャラクターを「悪党」と呼ぶのか。
「侵略者」や「人殺し」ならわかるが、「悪党」ぶりは俺見てないけど、
とか、余計なことばかり考えてしまう。

中村獅童の声ぐらい、みんな安定して出せるとヒーローものなのになあ、
とか、CGのマスク切りが甘いとか、煙のCGって雲模様の変形だから立体性がないよね、
とか、なんでコミカルなシーンですよ、っていう説明用にコミカル音楽をかけるのだろう、
とか、あの仮面舞踏会開催の趣旨はなに? ヨーロッパ奪還の決起集会ではないだろうけど、なんで仮面? 乱交目的?
とか、あらばかりを探してしまう。

あらがあってもいいのだ、本筋さえしっかりしていれば、と基準を甘くしても、
肝心の主役に物語がない以上、退屈せざるを得ない。
感情移入して楽しめない。





脚本論:

ふたつだけ大きな欠点をあげておこう。

1 大嘘がふたつあること:
 映画の中では、大嘘はひとつ。これは大原則だ。
 石の力と、ウイルスXというふたつを持ち込むのはだめだ。
 G粒子や光がなくなるとかは、石という大嘘を認めれば設定としてOK。
 変身能力やシールド能力は、ウイルスXという大嘘を認めれば設定としてOK。
 大嘘がふたつある。石とウイルスXの関係は? 関係ないんでしょ?
 そりゃご都合主義というものだ。下手なうそをついてんじゃねえよ。

 僕なら、すべてを石の力にする。
 ギャラクターもガッチャマンも適合者の力なのだ、
 ただそれを侵略に使うか防衛に使うかの違いでしかない、とするだろう。せめて。
 でもいまどき、石の力って、ファイナルファンタジーでもやらないんじゃね?

2 事件が過去にあって現在でおきていない:
 ケンの過去のほうが重要で、現在のケンがないがしろにされている。
 物語は現在を扱うものだ。今のケンの悩み、今のケンの決断が主要ストーリーだ。
 過去は現在に影響を及ぼすが、現在が主であり過去が副でなければならない。
 現在のコンフリクト(ジンペイを見捨てたこと?)が過去のコンフリクトより
 劇的で、重要で、物語の焦点になっていなければ、それは現在軸の物語とはいえない。
 現状のストーリーは、「過去の思い出を清算した男」でしかない。
 「人類滅亡の危機を救うために、危険をかえりみず戦う男」の話ではない。


SFの考証のぬるさとか、いろいろ言いたいことはある。
気力があればまた書くかも知れないが、今日はこのへんで。
posted by おおおかとしひこ at 15:18| Comment(4) | TrackBack(0) | 実写版「ガッチャマン」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
最近実写版のガッチャマンをみました。

ダメな脚本としては100点なんじゃないでしょうか。脚本のハウツー本に載っている「やってはいけないこと」をきれいにやりすぎな気がしました。「いや、あえてそれをやっているのか?」という気にさえなります。私は「ハウツー本に書いてあったのはこういうことか!」と爆笑して見てました。よいお手本を見つけました。
Posted by 見習いO at 2015年11月13日 09:41
見習いO様コメントありがとうございます。
元々このブログは、自分で企画してた実写ガッチャマンがぽしゃったのが悔しくて、
じゃあ世間にどっちが上か見てもらおうじゃないか、
という動機で開設したものです。
ガッチャマンカテゴリにあります。

さて、勝負するまでもなく、糞中の糞ですね。
しかし進撃が下回るかも知れない。
しかし、糞王デビルマンが横綱なので、
糞魔王決定戦は難しいです。

あと、脚本家見習いなら、言葉に気をつけましょう。
お手本ではなく、反面教師や他山の石などと言いますよ。「お手本」をちゃんと調べておきましょう。
創作的に、「逆お手本」でも、尻拭き紙でもよいです。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年11月13日 14:22
>>脚本家見習いなら、言葉に気をつけましょう。

ご指摘ありがとうございます。

私は過去の名作映画をようやく100本ほどみた段階にいます。名作映画ばかり見ていて、駄作映画をあまり観たことがありません。

そういう中で見たガッチャマンは衝撃的でした。私のような初心者が犯しがちなよくない部分がいっぱいありとても勉強になりました。駄作映画を見るのがこんなに勉強になるとは思ていませんでした。

名作映画をお手本に、駄作映画を反面教師にして取り組んで行きたいと思います。
Posted by 見習いO at 2015年11月14日 05:00
現実世界へようこそ。

今かかっている洋画邦画をちゃんと見ましょう。
学校で習ったことと現実の違いを知りましょう。
現実があまりに糞だから、
学校では理想を教えるのです。
現実に絶望してしまわないように。

「創作において、勉強していない者ほど似たようなものを作る」という経験則があります。
生まれたままの無意識は、誰もが糞のようなものなのかも知れません。

ということで、糞ゲー並に数の多い糞映画を沢山見て(ツタヤの棚は7割以上糞映画ですよ)、
人生は私立じゃない(西原理恵子)を、
学ぶべきです。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年11月14日 15:06
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