このブログでは、脚本論を長々と書いている。
主張のひとつに、「物語とは動きである」というものがある。
ガッチャマンは、これに沿えば、動いていない脚本だった。
それを検証してみよう。
主人公ケンの動きを羅列してみよう。
なお、・が任務上の行動、○が彼の個人的行動。
・キャタローラーを止め、本部を守る。
○ジンペイを助けることもついでに。
・仮面舞踏会に侵入する。
・イリヤに接触、連行。
・ジョーの暴走を止める。
・イリヤに尋問。
・ジンペイを見捨て、イリヤ脱走を追う。
・ゴッドフェニックスで出撃し、博士を救い衛星砲を止めるため要塞へ。
・華麗に中ボスを倒す。
○南部博士の命令を無視、ジョーを助けることを決意。
・ナオミを殺す。
○「死ぬ時は一緒だ」といい、
・バードミサイルの出力を調整する。
さて、これで明らかになるだろう。
ケンは、ほとんどの行動で「言われた仕事をしていただけだった」。
彼の動きの大部分は任務であり、彼の個人的意見は反映されていない。
とするならば、これはロボットやバスの運行と同じである。
計画通りに動いていただけなので、「人間が動いた」わけではない。
例えばミッションインポッシブルのように、
自分で計画した責任があるわけではない。
個人的行動は、序盤にジンペイを助けたこと(任務上合理的な判断)、
ジョーを助けること、死ぬ時は一緒だと言いリーダーとしての責任を負うこと、
このみっつだ。実質あとのふたつだ。
(以前議論したように、「言う」は動きとしては弱い。
だとすると、行動は、ひとつしかない。
「風魔」で分析したように、主人公の行動は5分に一回以上はあるものだ)
ケンの動機が不明だ。
人類の半分が死んだ危機に対し、彼は本気で人類を救うつもりではないらしい。
何故なら、任務に不満があるとあとで分るからだ。
この物語における、ケンの動機はなにか?
「人類を救いたい」ではないらしい。
中盤や1000万人のセリフを聞く限り、「命令を聞きたくない」であるとしか思えない。
否定形? あほか。
物語とは、
「○○をしたい/しなければならない」と意識的にも無意識的にも「強烈に」思う主人公が、
それを実現するチャンスを得て(異物との出会いで)、
それを阻む障害をのりこえ(コンフリクト)、
ついにはそれを実現するという基本骨格を持つものである。
(そうでない物語は、必ず駄作である。例外があるならぜひコメントを)
原作ガッチャマンの基本コンセプトは、
「人類を滅ぼそうとする、科学を悪用する組織に、世界平和の実現のため戦う」の筈だ。
だから、「誰よりもケンが(個人的に)世界平和を望む人物」でなければならない。
南部博士の命令を無視するなら、個人的理由「世界平和を望む」からこそ無視しなければならない。
それが、逆なのだ。
「命令を聞きたくない男が、命令を無視して友達を助ける話」なのだ。
彼の本心が否定形なのだ。
脚本家の内面が幼稚すぎる。
「外に出るのが怖い」と言っているオタクや、
「嫌われたくない」と言っている内気や、
「親の命令は聞きたくない」と言っているすねかじりや、
「上司の無茶ぶりをやりたくない」と言っている無能と同じだ。
じゃあお前、何がしたいんだよ?
映画における動機は、「○○がしたい」でなければならない。
映画は絵で結果を見せるものだから、「○○じゃなかった」という結末ではなく、
「○○が出来た」という結末を見せる必要がある。だからカタルシスがある。
この物語におけるケンは、
上司の言うことが嫌な無能社員だ。
ただずっと我慢して黙って聞き、
最後にそれを無視してくつがえすことで悦に入っている小さい男なのだ。
それで上に反抗して成功した俺つええ、とリーダー面をする、下には偉そうな男なのだ。
脚本家は、現実社会で仕事をしたことがないのではないだろうか。
自分で責任を持ったことがないのではないだろうか。
仕事には目的がある。手段は選ばない。
その目的を達するなら何をしてもよい。
上司の命令は、親の子供への強制ではない。
むしろ、その命令以上に目的を達成できるなら、(上司の顔は潰れるが)ただしいのだ。
そもそも何のためにその目的があり、この組織の正解とは何かを考えられる者が、
優秀な仕事人である。
持ち場だけをやっていればよい下っ端の役職ではない。
人類の存亡がかかった、日本でたった5人しかいない決戦兵器のリーダーなのだ。
ケンにはその自覚があるのか。その者が何故命令の意味を自分の言葉で分らないのか。
そもそも彼は何がしたいのか。
この動機の不足が、彼をロボットにさせるのだ。
脚本家の幼稚な思い、「上の言うことを聞きたくない」が根本である以上、
ガッチャマンがガッチャマンであるわけがない。
中学生の反抗期か。
ジョー一人が犠牲になり、1000万人と東京が救えるなら兵隊のコストとしては安いほうではないか。
兵隊とは何か、死を覚悟するとはどういうことか、
力を持ってしまった者が、人類に、対ギャラクターに出来ることは何か、
何故ケンは命を失うかも知れない戦闘に出かけることが出来るのか、
命をかけて戦う自衛隊や国際連盟のことをどう思っているのか、
彼の覚悟は何か、
脚本家は本気で考えていない。
本気で考えてこのレベルなら、相当その者の知性のレベルは低い。
現代におけるヒーローものとは、
「悪を殺す理由を創作するゲーム」であると書いた。
そんなことすら、この幼稚な中学生は考えていないと思われる。
だって親の命令ばっか聞いてる俺がつまんなくて、
過去に反抗して失敗したから、嫌々従ってるけど、
やっぱ親は間違ってるから、カッコ良く否定して、
子供のころからちょっと好きだったけど告白もなにもしてない、
実質振られた女を、刺して過去を清算して、
下の者たちにリーダー面したいんだもの。
似ている物語を思い出した。
父の言うことをきかず、父を殺す幼稚な思いをそのまま書いた物語。
理由のない全能感が主役に付与された中二病。
ゲド戦記宮崎吾郎版だ。
どこが「ガッチャマン」なのだろうか。
原作の大鷲のケンに、内面的葛藤はなかったかも知れない。
(後半は父探しがある。これからも、父役は南部博士であってはならない)
30分のアニメシリーズにそこまでは必要ない。
ただひとつ、彼には劇的動機があった。
「世界平和を望む」ことだ。
この根本を変えては、ケンではない。
逆にガッチャマンの実写化とは、このアニメ的なケンを、
どうやって実在の人物のように据えるか、が肝になる筈だ。
恋愛要素やチームの友情は、その軸の上に乗っかるものだ。
ケンの人間としての動機(「どうしても世界平和を実現したい」)を描き、
その通りだと感情移入して(教科書的な陳腐な動機だからこそ、
それがありがちでない、今風のリアルな描き方をしなければならない。
それが一番難しい)から、
彼の戦いや苦悩に一喜一憂し、恋愛要素にうっとりとしたり傷ついたりして、
チームの友情のヒビや団結に燃えたりしたかった。
そのうえでスーパーアクションで燃えて、CGやるじゃん、音楽もいいね、
悪は栄えない、正義は正しいと思いたかった。
ハリウッドじゃない、これが日本の誇る文化だ、と胸を張りたかった。
ガッチャマンの実写化とは、そのようなミッションだった筈だ。
なにひとつ出来ていないではないか。
それが、ケンの行動表をつくるだけで読みとれてしまうのだ。
もし批評パート3をやる気力があれば、「物語の面白さとは?」で書いた、
6つの要素について検証したいと思います。
2013年08月26日
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