2013年08月29日

じゃあ、どうすればよかったのか?(ガッチャマン批評5)

文句ばっか言っててもしょうがない。
ありうべき理想型について議論しよう。

まず、何を置いても、これだけは外してはならないことを決めよう。
他の全部(CGとか恋愛パートとか)が大失敗でも、ここだけは死守すべきという、
ガッチャマンの芯の部分だ。
僕は、「熱いヒーローもの」だと思う。

科学忍者隊ガッチャマンの一番大事な内容や魂は何か、
一番出来てなきゃいけない、ディテールではなく中身のこと。
鳥モチーフ捨てや、ジュン改変、設定改変、
カッツェの改変、それを飲んだとしても、
一番やらなきゃいけない、
新しい世界にガッチャマンの魂を生まれ変わらせるとして、
変えたら本質が変わってしまう、変えてはいけないもの、
最低限それが出来ていなければ話にならないもの、とは何か。

この映画版は、その一番大事なものを無視している。
これほど皆が反発するのは、だからではないか。
ガッチャマンでもないし、映画としてもつまらないと言われるのはそのためだ。


「熱いヒーローもの」が本質だとして、
以下議論しよう。


二つある。熱さ、とヒーローもの、の要素だ。
熱さについて。

悪を憎む、ということが一番大事だと思う。
ただ暑苦しいとか、正論バカでは駄目だ。
子供番組のような薄っぺらい正義感でも駄目で、
自衛官や警察官、消防士や軍隊のようなリアルが必要。
なおかつ、一兵卒ではない、リーダーとしての熱さ。
本当に悪のことと正義のことを考えていて、そのために命を使う覚悟と理由があること。

主人公ケンが、本当に悪を憎み、行動する熱さに、
本当に感情移入出来る物語でなければならない。
これが出来ていないと空回る。
(大岡版では、テロの爆発に巻き込まれ父が庇って死んだことで
基本的動機を、親友アランを自分の躊躇で死なせてしまったかも
知れないという甘さが、第二の動機となる。
アランの仇討ち、自分の甘さの克服、父の「人を守る」思いを継ぐこと、
仲間たちと一心同体になってゆくドラマを経て、
父の形見の操縦悍で、ケンは出撃する)

熱さは行動の動機だ。
映画とは動きだ。
動機ゆえに人物は動くのだ。
しかも動機を自分で説明するのは野暮だ。(この映画版ではその愚を犯している)
ただ黙って動くのに、手に取るようにその人の熱さが伝わってこなくては
映画ではない。

「ヒーローもの」については、批評1で詳しく議論したのでそちらをご覧いただきたい。

「熱いヒーローもの」でないパターンもありえる。
だとすれば、物語は全く別のものになる。
ときどき、良かったからちょっと変えて流用しようという事が脚本界ではあるらしい。
(たとえば世紀の駄作「Red Shadow」は全く別の作品を流用しているらしい)
それはダメだ。ひとつのコンセプトからは、ひとつのストーリーだ。
コンセプトが変わったら、ストーリーを変えなければ、ねじれた話になる。
(慣れていると、流用やつぎはぎが分るようになる。
たとえば「トランスフォーマー」はそのつぎはぎが多い)

さて、この最も外してはいけないものを、
テーマとか、コンセプトとか、本質とか、場面や文脈で言葉が違って使われる。
僕は、「魂」に統一したほうがいいと思う。

今回の映画版には、このどうしても外してはいけないたったひとつの魂がなかった。
科学忍者隊ガッチャマンから抽出したものでもなかった。
だからダメなのだ。
たとえ表現がしょぼくとも、魂さえ出来ていれば人は感動し、満足する。
(実写版「風魔の小次郎」、「変態仮面」「電人ザボーガー」のように)
原作の魂も継がず、それに匹敵する新たな魂も創作せず、それを凌駕する魂もなかった。
だからダメなのだ。
原作の魂を継ごうとしたが駄目でした、ならまだ挽回のチャンスはある。
原作の魂の要素がなく、新たな魂もないのなら、それはゴミ屑だ。


下手な人は、色々足すことで表現しようとする。
ウイルスX、シールド能力、適合者、訓練、17日間の侵略、カッツェの正体、恋愛要素、リュウのドラマ、
ゴッドフェニックス、火の鳥、衛星砲、過去のトラウマ、潜入作戦。
醜い女ほどメイクを盛って嘘に嘘を重ねてゆくのと同じである。
上手いシナリオとは、たったひとつの大事なこと、魂のために物事を配置するのだ。
そして、いい映画とは、このたったひとつのことが、すごく大事に思えるような、強固なものなのだ。
脆弱な魂だから、盛ってごまかすのだ。
弱者が鎧を着て自分を大きく見せているだけだ。
まずいうどんだから、具を何種類も入れて、
まだまずいのではという不安が、別の具を足したりさせるのだ。
うまいうどんは、素うどんでうまいもののことを言う。

たったひとつの大事な魂が、それだけで成立するような、強力なものをまず創作することが、
脚本制作の初手なのである。


この映画は、初手から間違えている。それ以降何をしても間違い。
迷路で最初に右に行けば正解なのに、最初に左に行けば、その先は間違いしかないのと同じである。



では、何故多くの大人が関わったにも関わらず、
初手から間違っているものがロールアウトするのだろう。
このブログの脚本論でかなり言及してきたが、
素人ほど静止画的要素しか議論できないからである。

きっと、このようにつくられた筈である。

ガッチャマン実写化しようぜ
→でもあのスーツどうする?→先行投資でつくってみる?(2000万無駄遣い)
→あの5人のキャスト問題だよね→今人気で、制作資金が集まる人→ちょっと違ってもOKっしょ
→そろそろ脚本家呼ぼう
→志ある脚本家や監督「それガッチャマンじゃねえじゃん」降板
→これでもやってくれる人、やれる人を探そう→しばらくループ
→才能のない人「僕なら出来ますよ、やらせてください」→救世主キター
→第一稿できた→ちがう→いじる→いじる
→女に受けないと駄目だから恋愛要素よろしく
→ていうか腐女子にも受けないと
→いじる→いじる→無理がある→あとづけ
→あとづけ設定ばかりで盛られて、中心が分らなくなって来た
→これほんとにガッチャマン?、いえ、全く新しいガッチャマンですよ
→手遅れ
→公開日も決まっちゃったから、これでやるしかないでしょ、スタッフの力を信じましょう
→いまここ

さあどこが間違い?
初手である。
誰もが心配する「あのスーツどうする?」は、とりあえずおいておくのだ。
デザインや実制作は作業の後半だ。外面的なことだ。
まずどこに魂を置くのか、ガッチャマンが映画になるとしたら、そのテーマは何か、
外してはいけないたったひとつのことは何か、
ふたつあるとしたら、大事なひとつは何か、ひとつにならないのなら、強力なひとつが出来るまで粘る、
これについて議論がなされていないのだ。


この作業工程では、どこにもなかった。
スーツ(外面)ありきだからこうなる。
内面のストーリーありきで、そこを決めたら、あとは優秀なデザイナーを呼んでくるだけで解決したのに。

明らかにこの映画では、
全体をバットマン風のトーンにしよう
ガッチャマンの能力→石の力
ギャラクターの強さ設定→シールド能力で通常兵器が通用しない、ガッチャマンだけが突破
石→適合者→800万人に一人→他にもいるかも?でも5人ぐらいかも?
ギャラクターの正体→ウイルスXによるヴァンパイアもの
カッツェの正体→人間ドラマにしようぜ、ケンやジョーの過去の関連にしよう。女だ!
クライマックスは?→衛星砲→カークランド博士のサブプロット
あとは、人間ドラマよろしく
ウイルスXの確率=石の確率ってどんでん返しはおもしろくね?
で、テーマって何だっけ?ケンにドラマをつくらなくちゃ!
の順で脚本がつくられている。

外側から物語をつくっているのだ。逆だ。中心からつくらなければならないのに。

一番外してはならないものは何か。そもそも原作のテーマは何か。
そのために、どのような主人公のストーリーがあるか。
原作の設定を借りる所、創作する所を考える。
そのアンチテーゼは何か。細かな障害は何か。
ガッチャマンでありそうな話は、サブプロットとして使え、メインテーマの補強になるか。
あとは、現代的SF設定を、ドラマ優先で設定する。
もし面白く使えるなら、メインドラマに持ってきてもよい。

そして、そもそもその魂は、良く出来ているのか。
もっと面白くならないか。

この順でつくらなければならなかった筈だ。

テーマや魂を議論することは難しい。
ある程度物語の教養や、議論する能力が必要だ。
(黒澤だって一カ月箱根で合宿したのだ)
つまり、企画した(最初にプロジェクトを立ち上げた)人は、頭が悪いとしか言いようがない。


タツノコプロも、テレビ局も、日活も、この大船に呉越同舟で乗り合わせた。
タツノコは新作アニメ制作(新ヤッターマンも込み)という餌で。
テレビ局は懇意の芸能事務所と音楽事務所の押しという餌で。
日活はヤッターマンと二本つくれるという餌で。
(「進撃の巨人」を思い出してみたまえ。中島哲也降板がなければ、
実写アニメ同時期というビッグプロジェクトだった筈だ)
こういうの護送船団方式って言うんだっけ。
そもそも日本の巨大プロジェクトのやり方がこれだから、ダメなんだと思う。

映画はテーマからのトップダウンである。
トップが一人じゃない(おそるべき事だが、大枠が決まってから脚本家と監督が決まる。
つまりトップとは、企画をしたプロデューサー達である。
wikiによれば、企画という役職はなかった。
製作総指揮、エクゼクティブプロデューサー、製作、プロデューサーの役職の計10人のうち
誰かがA級戦犯だ。監督はケツ持ちだ。エンドロールの順番がそのようになっている)時点で、
それは失敗を約束する仕組みなのである。

そうではない巨大プロジェクトの作り方はないのだろうか。
僕はプロデュース業に明るくないので、資金調達の仕組みや、
座組みや興行の仕組みについては良く分らない。
プロデューサーにはプロデューサーの言い分もあるだろう。
ただ、脚本についてだけは分る。
観客は座組みや資金を見に来るのではない。
映画の中身、ストーリー(脚本)と外面的な世界を楽しみに来る。
それだけは、映画が見世物である以上当然だ。

魂や脚本ありきのプロジェクトはどうすれば成立するのか、僕には分らない。
しかし魂なき映画ばかりつくっていては、本当に日本映画は駄目になると思う。
今回ばかりは失望した。どれだけ俺がガッチャマンを愛していたか。
二度とこのような愚は繰り返してはならない。
志ある人、何かを一緒にやりませんか。是非ご連絡を。
posted by おおおかとしひこ at 14:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 実写版「ガッチャマン」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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