2013年09月01日

センタークエスチョン(ガッチャマン批評7含む)

短編なら迷わないけど、長編だと見失いがちなこと。
それは、センタークエスチョンを見失うことだ。
ガッチャマンの脚本の致命的問題点
(普通致命的欠陥は一個ぐらいなのだが、
この歴史的欠陥脚本にはいくつもある)もそこにある。

センタークエスチョンとは、
映画全体での問題のことだ。
映画がはじまり、主人公が解決しなければならない問題が明らかになる。
主人公は、映画全体の冒険で、これを解決する。
この解決が、映画全体の終わりと同じ意味だ。
地球は救われるのか?、とか、この人生は逆転出来るのか?
とか、問いの形をしている。
これにラスト、yes!と答えられることを予期しながら、
映画は見るものである。

これをハッキリ設定出来ていない映画は、
焦点がぼけやすい。
(今何のためこれしてるんだっけ、分かってはいるけど興味持てねえ)
技術的には、第一第二ターニングポイントに強く置き、
果たして主人公は○○出来るのか?とセンタークエスチョンを
意識させるのが定番だ。(テレビでもCM前の定番だね)
シドフィールドは、それ以外に、ピンチ1、2という二つのポイントでも
センタークエスチョンを意識させると脱線しなくて済むと言っている。

センタークエスチョンは大きな目標であるから、
これらはいくつかの小目標に分割されるか、
Aの為にはBをしなければならず、その為にはCが必要、
などの連鎖目標になることが多い。
一つ一つを、クリアすべき障害という場合もある。
(シドフィールドは障害を4つにせよと経験的に述べている)

野球に例えるなら、
試合に勝つのがセンタークエスチョン、
点を取るのが小目標、
その為にはランナーを出すこと、
ピッチャーの変化球を攻略すること、
などがそれぞれ連鎖する小目標だ。
変化球を打てればランナーを出せ、点を取れ、勝てる。
それが分かっているから、
ストレートを捨ててカーブに狙いを絞る賭けにハラハラしたり、
真後ろにチップしたらタイミングが合っていることに、
もうちょいだ、と思う事が出来、
得点圏のランナーが刺されたらもうダメかも、とハラハラ出来るのである。
これが、小目標が何であるかぼやけて分からなかったら
(極端に言えば野球のルールを知らなかったら)、
カーブ狙いやチップやランナーが刺されることに、
全くハラハラ出来ないだろう。

だから映画では、その小目標の設定に万全を期し、
今やっていることがセンタークエスチョンのどこの連鎖に
寄与するかを、ハッキリさせて焦点を絞るのだ。


さて、我らがガッチャマンの歴史的糞脚本である。
そのようなものがあっただろうか。
ギャラクターを倒す事がセンタークエスチョンである。
さて、もうその次の小目標が分からないのだ。
何を達成することがその大目標に寄与するのかが分からないのだ。

当初、拠点を探す為にイリヤを確保し聞き出す、
という小目標はあるが、聞き出せなかったあとは、
何が小目標なのか分からなくなる。
あることをクリアして、その為にはこれが必要であり、
その為にはこの難しい二択をクリアしなければならない、
などの連鎖が映画だ。
この脚本では、
ジョーの感染を知られないこと、カッツェがナオミだったことをケンに知られないこと、
などの、ばれたら困る、という「持たせ」しかしていない。
これは小目標の連鎖という障害をクリアして最終のセンタークエスチョンを解決する、
という物語がもつ、当たり前の構造を持っていないのだ。

終盤の関心事は、
五大都市への衛星砲回避、ゴッドフェニックスの生還であるが、
この小目標のクリアはなんらセンタークエスチョンと関係がない。

つまり、この脚本は、
単発的に起こる関連のない各問題を、一つ一つクリアしていただけだ。
映画とは、一連の繋がったおはなしのことだ。
散発的な、繋がっていない、ばらばらのものをただ並べただけなのだ。

野球の例えで言えば、
試合に勝つというセンタークエスチョンがありながら、
玉を捕るとか、一塁まで走るとか、サインを盗むとか、
どれとどれも繋がってないプレーを、ただ見させられただけなのだ。
玉を捕れたら一塁が重要になるから玉を捕る、
みたいな連鎖の関係はない。


繋がっていない。だから退屈なのだ。

ギャラクターの本拠地を探るのがセンタークエスチョンに
必要なら、あのワープゲートの謎を辿るのが連鎖というものだ。
どうやって本拠地から現場に来るのか、どうやって退却しているのか
解明することが本拠地へのルート確保になるだろう。
あるいは、ヨーロッパが壊滅し、奴隷が取られているなら、
その国の国境線から攻めいることも小目標になる。
この為に国境線を警備する小基地を落とすことが次の小目標になる。

このように、ストーリーとは繋がっている連鎖である。

あの糞脚本は、ストーリーを書いていなかったのだ。
120分ぶんのセリフとト書きを書けば脚本なのではない。
ストーリーを書くのが脚本である。
そして、ストーリーとは、センタークエスチョンの解決の、
繋がった一連のことである。
映画とは、その流れを楽しむ娯楽の名だ。
posted by おおおかとしひこ at 02:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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