2013年09月01日

今日、ほんものの芸能を見た。(ガッチャマン批評8含む)

今日の暑い日は、自由が丘の熊野神社の祭りであった。
目黒ばやし、という無形文化財と看板した方々が祭囃子を奏でていた。
笛というのはこんなに遠くからでも聞こえるのかと思う。
大太鼓1小太鼓2(イヨッというボーカルこみ)、金太鼓2、
メインの横笛1という編成だ。
全ての要素が必要で、全ての要素に無駄がなく、全ての要素が一斉に連携していた。
本物というのはこういうことだ。

ずっと昔にこれを聞いた人と、同じ気持ちを共有することが出来る。
どれだけの時を経てきたものか不勉強ながら知らないが、
同じ曲を同じように聞いていることに胸をあつくした。

この楽曲の楽譜を書いた人がいる。
楽譜なんて見る人には関係ない。俺は曲を聞いている。
だがよく考えると、楽譜と奏者は別々だ。

脚本も、こうあらねばならない。

脚本の存在を知られてはならない。
役者がその通りに動かされている、と感じさせてはならない。
登場人物が、その人の本心で動き、泣き、笑い、喜び、本心で憎んだり傷ついたりしなければならない。
俳優と台本の存在に気づかれては駄目だ。

祭囃子は、泣きそうになった。
本物がそこにいたからだ。
あの音楽の中に、芸能の神が宿っていた。その神の降臨を俺は見た。
僕がプロだから楽譜と奏者の関係に気づいただけで、
普通は、太古からの芸能の神と対話すればよいだけである。

全てが機能し、生かされていないものはなく、
しかも最小限で、主と副があり、渾然一体となっている、時間軸を持つ場。
この脚本(楽譜)を書いた人がいる。


脚本家は、ほんものの芸能を見たほうがよい。
生で見たほうがよい。
収録されたり加工されたり二次情報ではなく、
生の、そこに芸能の神がいる瞬間に立ち会うべきである。

祭囃子や大道芸や舞台の、古い芸能を見たほうがよい。
高尚な趣味ではなく、大衆芸がいい。
そこに芸能の本質がある。
人を集めて、楽しませるほんものの芸がある。
本物の芸能の神にたくさん出会って、脚本と仕上がりの関係を、考えるとよい。

奏者に神が降りるのではない。
楽譜を奏でる奏者全体の場に神が降りるのだ。
その楽譜と奏者がいれば、芸能の神が降りるような楽譜を書くのは、
その脚本と役者がいれば、そこに芸能の神が降りるような脚本を書くのと同じことだ。

脚本家とは、そのような仕事のことである。
だから偉大で尊敬に値する。


今更ながら、ガッチャマンのうんこ脚本家は、ほんものの芸能を見たことがないのだろう。


ちなみに、自由が丘の女神祭りステージのレギュラーである、
東京マッド氏のステージは、僕の考える最高のステージのひとつだ。
(最近火吹きをやらなくなって、テンションが落ちたのが残念)
機会があったら見ることをすすめる。


その後、子供神輿に続いて女神輿がやって来て、男しか担げない本神輿が登場した。
男の神輿の担ぎ手は、みんなケンカの強そうな、現実で役に立ちそうな男たちばかりだった。
ガッチャマンも、本当はこうあるべきだと思った。
警察官や自衛隊に入れそうな、「いざという時に役に立つ」男がヒーローの最低条件だろう。

ライダーが細いイケメンなのは、俺は許せない。
ケンカが強そうな、ほんものの男の役者が出てこないのは、
ペラペラの王子にしか騒がない女どもにも問題があるが、
今の流れのほうが特殊で、人類は昔からこんな男たちをいいと思ってきた筈だ。
逆にいえば、今日本は平和なのかも知れない。
(311後の現在の日本はそうではない、と僕は皮膚感覚で感じるが、
ガッチャマンのうんこプロデューサーはそう思っていないようだ)

ちなみに女神輿の担ぎ手は、
平時はあまり美人でない人たちのほうが多かったが、とても美人に見えた。
普段は駄目でも、いざというときにカッコイイのが本物だと、
改めて思い出した。みんないい女たちだぜ。

更にちなみに、女たちの生足に膝までの白い脚絆が、ミニスカ白ブーツと同じビジュアルで、
この暑さの清涼剤となった。日本人は昔から「コレ」が好きなんだよ。

俺の初恋の人、白鳥のジュンを、あんな「醜い」ビジュアルにした者たちに、
改めて殺意が沸いた。
あ、非常時に役に立たなそうな、剛力さんのミニスカブーツはいらないです。チェンジで。
posted by おおおかとしひこ at 18:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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