今日の暑い日は、自由が丘の熊野神社の祭りであった。
目黒ばやし、という無形文化財と看板した方々が祭囃子を奏でていた。
笛というのはこんなに遠くからでも聞こえるのかと思う。
大太鼓1小太鼓2(イヨッというボーカルこみ)、金太鼓2、
メインの横笛1という編成だ。
全ての要素が必要で、全ての要素に無駄がなく、全ての要素が一斉に連携していた。
本物というのはこういうことだ。
ずっと昔にこれを聞いた人と、同じ気持ちを共有することが出来る。
どれだけの時を経てきたものか不勉強ながら知らないが、
同じ曲を同じように聞いていることに胸をあつくした。
この楽曲の楽譜を書いた人がいる。
楽譜なんて見る人には関係ない。俺は曲を聞いている。
だがよく考えると、楽譜と奏者は別々だ。
脚本も、こうあらねばならない。
脚本の存在を知られてはならない。
役者がその通りに動かされている、と感じさせてはならない。
登場人物が、その人の本心で動き、泣き、笑い、喜び、本心で憎んだり傷ついたりしなければならない。
俳優と台本の存在に気づかれては駄目だ。
祭囃子は、泣きそうになった。
本物がそこにいたからだ。
あの音楽の中に、芸能の神が宿っていた。その神の降臨を俺は見た。
僕がプロだから楽譜と奏者の関係に気づいただけで、
普通は、太古からの芸能の神と対話すればよいだけである。
全てが機能し、生かされていないものはなく、
しかも最小限で、主と副があり、渾然一体となっている、時間軸を持つ場。
この脚本(楽譜)を書いた人がいる。
脚本家は、ほんものの芸能を見たほうがよい。
生で見たほうがよい。
収録されたり加工されたり二次情報ではなく、
生の、そこに芸能の神がいる瞬間に立ち会うべきである。
祭囃子や大道芸や舞台の、古い芸能を見たほうがよい。
高尚な趣味ではなく、大衆芸がいい。
そこに芸能の本質がある。
人を集めて、楽しませるほんものの芸がある。
本物の芸能の神にたくさん出会って、脚本と仕上がりの関係を、考えるとよい。
奏者に神が降りるのではない。
楽譜を奏でる奏者全体の場に神が降りるのだ。
その楽譜と奏者がいれば、芸能の神が降りるような楽譜を書くのは、
その脚本と役者がいれば、そこに芸能の神が降りるような脚本を書くのと同じことだ。
脚本家とは、そのような仕事のことである。
だから偉大で尊敬に値する。
今更ながら、ガッチャマンのうんこ脚本家は、ほんものの芸能を見たことがないのだろう。
ちなみに、自由が丘の女神祭りステージのレギュラーである、
東京マッド氏のステージは、僕の考える最高のステージのひとつだ。
(最近火吹きをやらなくなって、テンションが落ちたのが残念)
機会があったら見ることをすすめる。
その後、子供神輿に続いて女神輿がやって来て、男しか担げない本神輿が登場した。
男の神輿の担ぎ手は、みんなケンカの強そうな、現実で役に立ちそうな男たちばかりだった。
ガッチャマンも、本当はこうあるべきだと思った。
警察官や自衛隊に入れそうな、「いざという時に役に立つ」男がヒーローの最低条件だろう。
ライダーが細いイケメンなのは、俺は許せない。
ケンカが強そうな、ほんものの男の役者が出てこないのは、
ペラペラの王子にしか騒がない女どもにも問題があるが、
今の流れのほうが特殊で、人類は昔からこんな男たちをいいと思ってきた筈だ。
逆にいえば、今日本は平和なのかも知れない。
(311後の現在の日本はそうではない、と僕は皮膚感覚で感じるが、
ガッチャマンのうんこプロデューサーはそう思っていないようだ)
ちなみに女神輿の担ぎ手は、
平時はあまり美人でない人たちのほうが多かったが、とても美人に見えた。
普段は駄目でも、いざというときにカッコイイのが本物だと、
改めて思い出した。みんないい女たちだぜ。
更にちなみに、女たちの生足に膝までの白い脚絆が、ミニスカ白ブーツと同じビジュアルで、
この暑さの清涼剤となった。日本人は昔から「コレ」が好きなんだよ。
俺の初恋の人、白鳥のジュンを、あんな「醜い」ビジュアルにした者たちに、
改めて殺意が沸いた。
あ、非常時に役に立たなそうな、剛力さんのミニスカブーツはいらないです。チェンジで。
2013年09月01日
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