ようやく見れました。「パシフィックリム」。秀作です。
あまりのガッチャマンとの脚本の基本の落差に苦笑いしたので、
比較して論じようかと思います。
これでガッチャマン批評は終わりにして、通常運転に戻るでしょう。
論点1「魂」:
これだけは外してはいけない、ひとつだけある重要なもの。
怪獣へのロケットパンチに象徴される、
怪獣を倒す勇気、男気、世界を守ることへの覚悟、戦闘の恐怖、
それを乗り越える熱い思い。
その全ての為に配置された各要素。
兄を失う痛み、どん底の生活からのパイロット復帰、
第二の主役司令官の思い。
パイロットは、ストライカーと中国以外、
全て大事な人を失った者たちである。だから、基本動機は仇討ちだ。
仇討ちではないかも知れない。
「次は、この悲劇は起こさない」というリベンジに思いは近いかもしれない。
だから、世界にこの悲劇を起こしてはならない、という「正義」への思いが胸を熱くする。
「お前はどこで死ぬのか選べ。ここの壁か。イェーガーの中か」
という第一ターニングポイントのセリフに、僕は泣いた。
こんなにしびれる熱いセリフ、久しぶりに聞いた。
「どうせ死ぬなら戦って死ぬ」という意味のセリフは、よく出てくるパターンだが、
ここまでよく書けたセリフを僕は知らない。
ガッチャマンで、ここまで熱いセリフがあっただろうか。
一番「決め」だと思われる、
「1000万人と一人」のセリフは、ここまで熱いか。
リムの中では、香港戦でも思ったが、「より多くを助ける。多少の犠牲を払っても」
というリアリズムが徹底されていた。コンテナやタンカーを武器にしたり、車を踏みつぶしたり、
高速道路を壊したり、その小さな犠牲より尊いものを守るのが当然で、
それで躊躇するのは兵隊失格である、という精神が徹底されていた。
そのリアリティにしびれた。実戦を経験している者の考え方だと思った。
翻って、ケンはなんと甘っちょろいことか。
親の命令への反抗期レベルだ。
人類を救うために南部博士やIPOが必死になっている(劇中ではなってないけど)
ことへ、反発してどうするのだ。しかも反抗が正義であるかのように。
一方そのテーマは、リムでは初手で描かれる。怪獣上陸の阻止作戦で、漁船を助けるのだ。
結果、都市防衛も漁船救出も両方成功。しかし怪獣は生きていて、それが兄を失う原因となる。
その後その怪獣が上陸し、より多くの死者が出た、という痛みを描くのも可能だが、
「人間ドラマとして」より痛い兄の死を持って来る所が上手い。
ハリウッド脚本の上手い所は、いろいろ説明の難しいことを、「ひとつの象徴」にするところである。
死にぞこない怪獣上陸→都市壊滅の痛みを、兄の死(コクピットから吸い出される絵は、ほんとに恐い)
という「絵」で表現する。上手い。
ガッチャマンの「テーマ」を、開始5分で全否定。
これは甘い人情の思考実験ではない、実戦なのだ、という強烈なオープニングでの「ガッチャマン否定」に、
僕は映画館で拳を突き上げた。
論点2「焦点とセンタークエスチョン」:
第一ターニングポイントでは、主人公は、
どん底の壁での生活(しかもその壁は怪獣に突破される可能性大)で死ぬか、
イェーガーの中で死ぬ(戦う可能性を取る)か、選ばされた。
ここで主人公がどういう人間か分かる。戦って死ぬ方を選ぶ、熱い人物だということだ。
「最良のセリフは無言である」という格言がハリウッドにはある。
ここで戦う方を選ぶ、無言の芝居が、どれだけ我々を熱くさせるか。
芝居とは動きのことである。「再び基地へ戻る」という「動き」が芝居なのだ。
日本人は「目で語る」とか、立ち姿とか、静止画的な芝居を芝居と思う傾向がある。
歌舞伎の伝統か、動かない静の美を尊ぶ傾向がある。
人間は常に動く生き物だから、静止に芸術を求めたのかも知れない。
しかし、「動く」映画の芝居はそうではない。
古典的なクレショフのモンタージュ実験が示すように、
無表情であっても、文脈でその人物の思う心を想像させることが出来る。
役者の顔は、文脈の器にすぎない。
文脈をつくるのは何か。脚本によってである。
ケンはただ「耐えている」という「動き(文脈)」のない芝居ばかりしていた。
これは役者の責任ではない。そんな動きのない役を与えた脚本の責任である。
もしケンが甘い考えで兄を失って、壁でどん底生活をしていて、
再びガッチャマンとして必要な時に南部博士が迎えに来たら、
松坂桃李は、すさんで荒れた表情から、目だけを輝かせるいい芝居をする筈だ。
リムのセンタークエスチョンは、当初は「怪獣を倒すこと」だ。
ところが怪獣は次々次元の裂け目から生まれてくる。
したがって「次元の穴をふさぎ、怪獣侵入を阻止」することが真のセンタークエスチョンになる。
リムの、主人公の行動の焦点とターニングポイントの表をつくってみよう。
行動(焦点) 事件(ターニングポイント)
出動
兄を失う
壁をつくる
壁が突破され、イェーガーパイロット必要
パイロット復帰
パートナーが必要
パートナー探し
マコに決まるが、シンクロ失敗
後方待機
電子機器やられる、ジプシーしか戦えない
ジプシーで怪獣二匹倒す
裂け目に原子爆弾落とす作戦(※)
怪獣を持ち、裂け目突入
この脚本の優秀なところは、(※)以外、全てがつながっているところだ。
行動に事件が起こり、その事件が次の行動の焦点になる。
最初のことゆえに次があり、それゆえに次がある。全ては順接でつながっている。
ラリーのように、行動→事件→行動→事件…という「途切れない連鎖」になっているのだ。
だから息つく暇もなく、スムーズに話が流れている。
焦点は合い続け、次の焦点へ劇的なターニングポイントが誘導する。
(他方、ガッチャマンでは話が停滞し、退屈である。展開に無理があり、作戦が穴だらけ)
リム脚本の唯一の欠点は、第二ターニングポイントだ。
(※)付近で話が途切れる。
香港戦でのジプシーの活躍はこの映画の中盤の見せ場だが、
ここでいったんヒーローの「完成」というピークが出来てしまう。
脚本論で書いた、「アイドルと暮らす」という「状況停止」が起きてしまうのだ。
ここから、なにかの事件で転落し、ボトムポイントを迎え、再起するというのが
パターンだ。だが、再起から物語が始まっている以上これは使えない。
実際には、
・司令官の現場復帰で熱さを維持、
・博士たちのドリフト→怪獣のDNAがゲート認識に必要→主人公に伝える、
のふたつのヤマでテンションを維持している。
サブプロットでメインプロットに接続する、迂回型である。
これが「主人公のメインプロット」に帰ってくれば、最高傑作になりえた。
主人公がここで一瞬後退するのが、この脚本の一番おしい所だ。
(2ちゃんの書き込みで、
「イェーガーに兄の魂が残っていて、『釣りに行こうぜ』と勝手に動き主人公を脱出させる」
というアイデアがあった。こんなのが欲しい、と思うのも、「主人公に焦点が合っていない」
第二ターニングポイントの不備を、無意識に補いたい欲望の現れである。
兄との約束を果たす、のもベタでつまらないし、兄との基本設定は釣りぐらいしかネタがない。
マコに、釣りをしたことがあるか?と聞く、なんてのはどうだろう。
ここでラビットを追わないにはどうすればいいか、過去のトラウマを未来に使う方法、
など、主人公のテーマが必要だったように思う)
さて、ガッチャマン脚本はどうだったか。
なんのラリーもなかった。
ストーリーとは、繋がりの糸だ。とぎれとぎれのものは糸くずという。
論点3「嘘はいくつあるか」:
1 次元の裂け目から、怪獣が現れた。
2 人類はそれに、巨大ロボ「イェーガー」で対抗。
3 イェーガーは二人乗り。頭脳神経の融合「ブレインハンドシェイク」(ドリフト)する必要がある。
のみっつであるように思える。SFである、というジャンルから、2は外してよい。
兵器がなぜ人型であるか、は「ロボットもの」のジャンルでは問わないからだ。
(ミサイルや砲撃が効かず、近接格闘兵器は人型が効率的、という基本ルールは抑えていたし)
この脚本の白眉は、「怪獣にドリフトする」というアイデアである。
ふたつ残った1と3の嘘を、ひとつに統合するのだ。
これによって、いくつもの嘘が、たったひとつの嘘であるように見える。
SFの嘘は、こうやって利用するものである。
一方、ガッチャマンでは、ウイルスX、シールド能力、石、適合者、科学力の根拠は奴隷、
ウイルスX=石の確率が同じ(だけどX=石ではない、という融合失敗)、
などなど、嘘に嘘を重ね塗りして、破綻が広がる一方だ。
嘘の焼け野原には、何も残っていなかった。
一方、リムでは、真逆の、統合というすばらしい流れをつくった。
論点4「リアリティ」:
僕が脚本で上手いと思ったのは、「ドリフト」というスラングだ。
神経融合なんとか、という専門用語を、
実際に体験しない科学者たちは「ブレインハンドシェイク」と愛称で呼び、
実際にそれをする者は、もっと体の感覚で「ドリフト」とスラングで呼ぶ。
これがリアルな言葉というものだ。
ひとつの概念を、一語で言うのは、スラングのリアルである。
覚せい剤や大麻などが、スピード、Sなどという、一語で呼ばれる感覚と同じだ。
このようなリアリティが、架空のことが、
「この世界では実在する」という感覚をつくっていくのだ。
一方、ガッチャマンでは、
我々はそれを「石」と呼んだ。あほか?
なんとかかんとかクリスタルとか正式名称をつけ、
我々は○○と呼ぶ、みたいな名前をつけ、石の使い手は別の俗語で呼ぶ、
そういうリアリティの構築を、何故できないのかわからない。あほだから?
「適合者」という日常用語でない単語を皆が使うのもわからん。
合格者とか、選ばれた人、とかぐらいだろう。
使う立場によって言葉が変わる、という人間社会の基本を、ガッチャマンの脚本家は知らないらしい。
もうすこし、この話つづきます。
2013年09月02日
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