ガッチャマンの話も飽きてきたので、脚本論、つづけます。
小説の梗概、というのをはじめて書いてみて、
これはよいと思ったので、オススメ、という話。
梗概というのは、あらすじと似たようなもので、
新人賞応募の際、本編に添付、と必ず言われるもの。
賞にもよるが、800字以内とか、1000字以内が多いようだ。
この重要なルールは、「結末まで書く」ことだ。
梗概は、多数の応募作を全部読まなければならないときに
どの作品から読むべきか、という判断に使われると聞く。
あるいは読み終わって、どのような話であったかの整理にも使われるだろう。
たとえて言うなら、ツタヤの棚ひとつぶん映画を見なきゃいけないとして、
DVDの裏のストーリー情報を頼りにするようなものだ。
映画は人を惹きつけるだけのアオリ文句で構わないが、
小説の梗概は、結末まで書くのが常識である。
これはすごいシステムだ。
最初がよくても、ラストが矛盾だらけだったり、途中の中だるみがあったりする映画は、
ネタバレとなるから、という理由で、「ストーリー紹介」ではわからないことがほとんどだ。
「一本のおはなし」としての概要を、映画では外から知るすべがない。
話の出来は、見るしか方法がない。
一方、小説の梗概では、ネタバレしたうえで勝負せよというのである。
梗概はあくまで話全体の概略だ。話は面白そうだ、さあ実際の本編を見せてもらおうか、
という世界なのである。
800字で、苦労して書いた小説の何が語れるのか、と思っていた。
書いてみて分る。「その物語の本質的骨格とは何か」を、
自分で把握していないと書けないのである。
何が枝葉末節で、何が物語の重要骨格か。
細かなセリフは省くべきか。否、テーマにどうしても必要なものなら必要か。
キャラクター性は感じられた方がいいか、省くべきか、物語性との塩梅は。
このことを残すなら、このことは残さなくてよいかなどは、
何が自分の物語の中で主副か分っていないと、取捨選択できない。
結末まで書くと言うことは、それはひとつの物語になっていなければならない。
ということは、オープニングがあり、異物との出会いがあり、
展開があり、どうなるかという読者の予想もあり、
クライマックスでは問題がどうなるかを見守り、
結末で問題の決定と結論が、それぞれ分るように書かなくてはならないということだ。
しかも出来うるなら、機械的に冷たい分析的文章ではなく、
その物語が起こす感情のようなものを、そこに起こすべきである。
(コメディなら笑いを、悲劇なら涙や静かな感動を、ホラーなら恐怖を、
謎ならその正解を知りたいと思い結末に納得するように、冒険ならワクワクを)
梗概を読むリズムが、小説全体を読むリズムと似ていることも大事である。
しかも、初めてこの物語に触れる人向けに。
それを800字に収めるのは、かなり筆力がいると思う。(僕は、まる二日かかった)
梗概は、実はこの筆力を見ているものだとも思った。
現実には、そこに達していない人達をふるいにかける方法なのかも知れないけど。
これを、脚本執筆に使おう。
第一稿が出来たら、その梗概を書いてみるのだ。
ルールは800字以内、結末まで書く。
これが面白く書けていないなら、きっと第一稿は面白くないぞ。
第n稿にリライトするために、どうすればいいか組み直すのにも、
梗概は使えるのではないだろうか。
とあるリライトが、全体にどのように最終的に効くか、という手術後の全容を見るのにも、
役に立つのではないだろうか。
手術跡が分るかどうか、それが全体を歪ませていないか、という判断力を鍛えるのにもよい。
複数の筋の同時リライトが、全体に効果的かどうか、などもこれで分るだろう。
ここまで実戦的でなくとも、中級者の諸君は、
自分の書いた短い物語を、さらに短い800字にするのは、
なかなか訓練になるだろう。文章表現力だけでなく、
構成力、取捨の判断力が養われるだろう。
既にある他人の映画や小説の梗概を書くのも訓練になるだろう。
とくに構成力に自信のない人は、名作100本ノックをやってみてはどうだろう。
(フジテレビの新人ディレクターの育て方のプログラムのひとつらしい。
800字かどうかは知らないが)
話の本質や骨格で、お話を見る力がつくのではないかと思う。
自分を鍛えるのは、実戦だけでなく、ときにこのような地味な訓練が必要だ。
映画会社の宣伝部も、こういうトレーニングをしてはどうかな。
最近、話の本質をうまくとらえていない、話を上手く宣伝出来てない宣伝部が、
やたら多い気がする。映画業界全体のレベル低下の、原因のひとつだと思うよ。
映画のフックを宣伝するのは当然だけど、
本質はフックじゃなくて、お話だから。
ガッチャマンはフックしかなかったけどね。
2013年09月03日
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