2013年09月06日

引きつけるのは、「まだ終わっていない」という感覚(ガッチャマン批評10含む)

何故我々は、物語を最後まで見るのか。
それは、「まだこの話が終わっていない」からである。
今この語りが中断したら、どう終わるかが気になるからこそ、
我々は席を立たずに、最後まで物語の行く末を、固唾を飲んで見守る。
テレビや連続もの、小説は、少し楽である。
区切り(CM前やその話のラスト、章の終り)に、「次どうなる?」というヒキで終われるからだ。

映画は、一度も中断せずに最後まで見る娯楽である。
途中の退屈とは、この話の終わりに興味が持てなくなった、気にならなくなった、ということだ。
この「未解決で引きつけること」を、サスペンド(宙ぶらりん)という。
サスペンス、とは宙ぶらりんのハラハラのことが原義である。
何も殺人やトリックだけがサスペンドではない。
おはなしの「行く末に没入する」だけの要素は、すべてサスペンドだ。

異物論では、異物との出会いによって引き起こされた「事件」が、
サスペンドの要素になる。

「この事件が解決するまで、この話は終わらない」という「気になること」
だけが、物語を最後まで見させる要素となる。
だから、「事件」とは、なかなか解決しそうにないもので、
なおかつ劇的に解決するものでなければならない。
その劇的解決こそがクライマックスであり、テーマでならなければならない。
この、事件発生→途中の展開→劇的解決の一連のストーリーラインが組めれば、
脚本は勝ちである。
途中、どのポイント(焦点が絞られたところ、ターニングポイントのところ)でも
「まだこの話は終わっていないから、終わりが来るまで見守る」
気持ちになっていることが肝要だ。

それには、事態が動き続け、主人公が事態を主体的に動かし、
しかも、主人公に強く感情移入していることが最低条件である。
そのうえで、予想を裏切ったり、期待にドンピシャで答えたり、
どんでん返しであっと言わせたりしなければならない。


ガッチャマンの脚本の問題点のひとつは、
終わっても終わらなくてもどうでもいいや、と思えることだ。
この物語のテーマを、クライマックスから逆算するならば、
「命令に従うことを無視し、かつての失敗(命令無視)の象徴を殺して償う」
だとすると、全ページでそこに向かって、「この話は終わっていない」という感覚をつくる必要がある。

命令無視のトラウマを、観客が本気で信じるように描き、
命令に従うことの苦しみを、観客が本気で苦しむように描き、
「命令無視は間違いだったのか」という問い(センタークエスチョン)が、
「それは間違いではないと証明される(解決)ラスト」を観客が期待して、
「この話はその結論が出るまでは終わっていない」からこそ、ラストまで引きつけられ続け、
ラストでカタルシスを得る、
そういう物語でなければ少なくとも面白くない筈である。

でも多分これは、何の共感も得られない物語になるのではないか。
「命令が必ずしも正しいとは限らない」ということへの反抗、が基本的な衝動だからだ。
反抗は「否定」でしかなく(名セリフも「否定する」だ)、
何かを否定することでしか表現手段を持たない、反抗期の中二の話だからだ。(中二は喜ぶかも)
ケンへの強い感情移入の原因が「本当は正しいのに命令違反を犯して、正しいと言いたい男」で
なければならないが、それには感情移入するほどの物語性がないからだ。

しかもそれは、「人類滅亡を救うため、自らの命を危険にさらして戦うヒーロー」という
物語とは、何も共通点がない。

だから二重に怒られているのだ。
原作無視と、オリジナルだとしてもダメ、の両方で。
オリジナルとしてもダメ、にはふたつあって、
上で分析した物語性がまず詰まらない
(感情移入に値するものが、ジョーのプロポーズを横目で見ていたエピソードという微妙さ。
ここを掘り下げて本当に感情移入する物語を書けば、まだ可能性があった)ことがひとつ。
その要素が物語の主要位置に置かれていなくて、
センタークエスチョンが「ケンはトラウマを克服出来るか?」にならず、
ジョーの感染やベルクカッツェの正体やジュンの恋愛小話に焦点が置かれている間違い、
がもうひとつ。
ひと言で言うなら、主軸のスジが通っていない。

つまりこの脚本は、三重にダメなのだ。

主軸を仮にこのケンのものにした場合、
たいして面白くないと思う不安が、他の要素を足していく原動力になってしまう。
メインディッシュがマズイからサイドで誤魔化そうとする。
この脚本は、ケンの物語と言う主軸に向き合っていない。
向き合っていないから、詰まらない。
だから、この物語が終わっていない感覚が、どうでもいいやという感覚になってしまう。

この物語が途中で終わってしまったら、どうしてもラストが気になること、
終わりのカタルシスを味わいたいこととは、ケンのどんな物語か、
を基準で、脚本は書かれるべきだった。

それは、物語の根本である。背骨である。
根本を、ダメな人は時に間違え、嘘に嘘を塗り重ねて誤魔化してゆく。
一本のずぶとい物語を書けない。


あなたの書く物語は、どのような「まだ終わっていない」サスペンドがあるだろうか。
その一番大事なことは何か。それがセンタークエスチョンだ。
そのセンタークエスチョンにまつわる副次的問題(サブプロットの結末)は、
物語の主軸と表裏一体になっているだろうか。
どのページでも、急に停電が起こって中断したら、どう終わったかどうしても知りたいように、
物語が引きつけ続けているだろうか。

それが1ページでも一行でも破綻していたら、それだけでそれは退屈な脚本である。

(先に議論したように、「パシフィックリム」は、冒頭から第二ターニングポイントまで、
90分近くこれを維持する、驚異的な脚本であった。
主人公以外の要素で退屈をカバーしきって第二ターニングポイントをやりすごしているが、
CGの大変さに比べて、海溝のラストバトルは、どうにも退屈が襲う。
それはやはり主人公への感情移入が途切れるからである。
ラストバトルが退屈なのではなく、主人公がなんで命を賭けているか感情移入出来なくなるから
退屈になるのである。司令官が死んで以降、主人公への感情移入が戻るのも、
司令官とストライカーの犠牲が動機に付与されるからである。

先に出したアイデア、「兄を殺した怪獣の脳へドリフトする」というパターンなら、
主人公自体が次元の裂け目の謎を知り、ストライカーの司令官と共同戦線を張り、
どちらかが海溝に原子爆弾を落とすように戦い、マコがつながった意識で兄の死を共有し、
最後にジプシーをぶっこむときに「さあ、釣りに行こうぜ」ってセリフを言えたのではないだろうか。
兄の仇を討ち、トラウマを克服して新しい仲間を得(Qの問題のクリア)、
次元の裂け目を閉じる(Pの問題のクリア)になるラストになったと思う。
この場合博士ズやハンニバルの活躍場面が微妙になるので、
そこを埋めるサブプロットを考える必要が出てくる。それはメインに比べれば瑣末な問題だろう)
posted by おおおかとしひこ at 16:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック