2013年09月09日

一番書きたいシーンはどこか?

物語を書くときに、あなたが一番書きたいシーンはどこであるべきか。
最も工夫を凝らし、もっとオリジナリティがあり、最もテンションが高い、
最もあなたのモチベーションになるシーンとは。

それは、ラスト直前の「問題が解決する瞬間」であるべき、という話。

あなたが脚本を書くからには、「書きたいシーン」が山ほどあるはずである。

映画史に残るような斬新なアクションシーン、うっとりするようなラブシーン、
しびれるような登場シーン、魅惑的なセリフ、哲学的な世界観、
インパクトある異物との出会い、謎に満ちたオープニング、張られたことすら気づかない巧みな伏線、
ライバルとの競り合い、悲しい場面、びっくりするシーン、主人公の苦悩、
印象的なラスト、衝撃のラストなど、
「これを書きたい」と思うからこそ、その話を書く理由になるものである。

しかし、それ以上に、最もあなたが書きたいシーンは、
「ものごとが全て解決する瞬間」であるべきなのだ。
逆に、ここがピークでないと、「他の途中のどこか」がピークになってしまうのだ。
つまり、そこ以降は「盛り下がる」のである。
これが退屈の遠因になっていることが多い。

クライマックスの、今までの問題が全て一撃で解決するカタルシス。
この瞬間のためだけに、センタークエスチョンも、焦点と行動の連鎖も存在する。
この瞬間のためだけに、主人公は冒険し、心の内面を乗り越え、命を賭ける。
この瞬間のためだけに、観客は最後まで興味を維持する。

例をあげよう。
ナウシカのクライマックス。王蟲の暴走を止めて死んだ?ナウシカが、
王蟲の触手でよみがえる。ここでナウシカの意志が王蟲に伝わる。
「その者青き衣を纏いて、金色の野に降り立つべし」の伝説の復活の瞬間だ。
勿論、音楽でも盛り上がり、全てのカタルシスがその瞬間に一点に集まる。
この瞬間こそが、脚本家の最も書きたいシーンでなければ、ここまで書けない。
メーヴェの浮遊や、腐海のディテールや、巨神兵のなぎはらいや、ガンシップのディテールや、
風の谷の生活や、ユパ様のカッコよさは、
これに比べたら本気度が薄い。
書く人間の本心や執念がここにないと、ここにたどり着けないだろう。

ロッキーのクライマックス。
試合後の、「エイドリアーン!」と叫ぶ瞬間であることは言うまでもない。
この為にロッキーは戦ってきたのだから。
逆に、全てがここに集約されるように、色々な要素が糸を編んでいることに注意されたい。
ロッキーの売れない日常、若手にロッカーを取られた悔しい思い、
エイドリアンとの貧乏な、しかし美しいデート、
ミッドポイントの、テレビに「エイドリアン見てるか?俺だ!」とアホみたいにはしゃいで
白い目で見られたことが、このラストへの直接的伏線となる。
「俺は何者なのか、愛する女の名をテレビに叫ぶのが俺だ」という、
全てをなし得たあとに叫ぶ、たったひとつの名に、ロッキーという映画の最も書きたい瞬間がある。

パシフィックリムの例を。
明らかに書きたいシーンは、怪獣とロボのバトルシーンである。
司令官とマコのシーンも書きたいところだし、棒術でマコと闘うシーンなども書きたいところだろう。
怪獣にドリフトするシーンもそうだろう。
中盤の香港戦がピークになってしまっているのも、それが書きたいシーンだからだ。
あれは誰もが夢見る「怪獣対ロボ」の完璧なバトルシーンで、絶賛しても絶賛しきれないくらい素晴らしい。
(そもそもの電子機器は使えないから、旧式のロボに出番が回るところから燃えるし、
エルボーロケットどころか、タンカーを武器にしたり、
ビルの中にぶち込んで、オフィスのカチカチを動かしたり、空まで飛んで競技場着地、なんて完璧だ)
ところが、そこが残念ながらピークなのだ。
最後の解決の瞬間「ジプシーデンジャーを次元の向うに、原子爆弾として爆発させる」が、
ここほどに、書きたかったんだろうな、とは思えないのだ。
十字架にはりつけられたキリストっぽくなる、というアイデアで補っている為、
そこまでテンションが下がることはないが、
やはり、「この瞬間を最も書きたかった」という情念を(香港戦ほどには)感じない。
解決が感情のピークにどうしてもならないのが、この作品の唯一の減点ポイントである。

ついでに、ガッチャマンは、
「衛星砲を停止する瞬間」か「火の鳥で脱出する瞬間」こそが、「問題の解決の瞬間」である。
ぎりぎり「カッツェを刺す瞬間」としてもよい。
これらがどうしても、他を犠牲にしても一番書きたかったシーンには、到底思えない。
(どこが一番書きたかったのかねえ。オープニングバトルかな)
今まで例に挙げた、すばらしい問題解決の熱い瞬間には、全く比肩しない。

人は、書き手の情念を読みとる力を持っている。
ああはいはいクライマックスなのね、盛り上がってるふりしてるのね、
というのは、分ってしまうものだ。
第一、そんなどうでもいいクライマックスの瞬間に向けて、
書き手のあなたが、本気になれるはずがない。
本気で書いていないものは、本気で見るに値しない。


問題の解決(センタークエスチョン)への関心が、映画を最後まで見る唯一の理由だ。
その解決の瞬間こそが、最も熱く、最もどきどきし、最もハラハラし、最も感動し、
そしてあなたが、長い時間をかけて書いて書いて書いた末にたどり着く、
一番の最終目標でなければならない。
山場、というのは、そうでなければならない。
その解決のカタルシスこそが、物語全体のカタルシスになるからである。

(これに続く後日談的ラストシーンは、全てを「一枚絵にする」という役割を持つ、と考えると、
動的場面である解決の瞬間と、静的場面のラストシーン、という使い分けが出来るだろう。)

この出口に向かって進む為に、全ての場面の役割を洗ってみよう。
そのために、あるシーンを切ったり改変したりすることは、難しくない筈だ。
途中のシーンが一番書きたいところだと、その固執が作品をダメにする。
その小シーン以上に書きたいシーンが、解決の瞬間であるべきである。

そうでないなら、その脚本は書かない方があなたの為だ。だってどうせ中途半端な話だもの。
中途半端でない脚本を、逆に「解決の瞬間が最もよく出来ている」と定義してもよいだろう。

(自分に刃を向けるが、「いけちゃんとぼく」の脚本は、当初の計画より大幅に変更したため、
全ての要素をラストへ向けて並べられなくなってしまった。製作途中の大幅予算削減が原因である。
経験の足りない僕は、そこで上手く整理できなかったのだ。ラストの「和解」へ向けての、
人間ドラマを再配置する十分な考察が出来なかったのが、序盤の話のヨレの原因である。
脚本は、リライトを重ねると、たいて話がヨレてくる。
再配置して上手く軸を貫くには、ものごとを整理したのち、最初から書きなおすのが、
実は一番早道なのに、僕にはこだわりがありすぎた。
クライマックスからラストまではとてもいいといまだに思うが、序盤の失敗は、
そのときどうすればいいか分らなかった僕の失策である)
posted by おおおかとしひこ at 16:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック