小説をとりあえず一本書いてみて、あまりの映画脚本との違いにびっくりした。
それについては、小説のススメに詳しく書いた。
表面的な違いを書いたけど、もう少し物語の根幹の構造の差を、書いていきたい。
僕はあまり小説は読まない、映画や漫画は沢山見る、という偏った経験なので、
「分ってない」レベルの話かも知れないが、参考意見程度に思ってくれれば幸いである。
「映画はDoの連鎖で、小説はwasの連鎖である」と言ってみる。
映画については、脚本論と称して、たくさん書いてきた。
映画は異物との出会いであり、焦点と動機がうまれ、行動する軌跡のことである。
それはコンフリクトという三人称形式で描かれる。
主人公の内面はセリフで語られることもあるが、より強いのは行動で示すことだ。
焦点と行動とターニングポイントがワンセットとなって、
それは静止するまで動き続ける。
だから、映画とはDoの連鎖である。
現在形であることもポイントだ。
小説のススメでも書いたように、映画のト書きは現在形だ。
「する」であり、「した」ではない。
何故なら、カメラにうつる芝居は現在形だからだ。
一方小説は、過去形で書き、大過去を重ね合わせることが出来る。
人物の思考や考えも、地の文に折り込める。
映画では、無言の行動が何を意味するか、分るように文脈を組んでいくが、
小説では、無言の行動に説明を付与することが出来る。
僕の書いた、脚本から小説にしたものを例にとろう。
「千年の花を」というタイトルの、オリジナルである。(いずれどこかで発表したい)
小説版の冒頭は、このようにはじまる:
きらきらした光を、千恵は見ていた。五月のいちょう並木は美しい。夏の深い緑もいいが、この時期の若い葉は、緑より緑らしい色だと思う。トラックの中から見る街路樹は、まっすぐで長い五月色のトンネルで、幹の大きさが古くに整備されたことを物語っている。夏になれば埋まってしまうだろう葉と葉の隙間から、太陽が見え隠れする。
風間千恵は、走るトラックの窓をあけ、空気を大きく吸いこんだ。
「さっすが高級住宅地! 空気の味も高級!」
隣の夫、司郎も窓の外にはしゃいでいる。
「家がデケエよ! 街路樹デケエよ!」
一方脚本版はこうだ:
○五月、新緑あふれる街路樹の道
街路樹からあふれる陽光。
新緑のトンネルを走る、引っ越しトラ
ック。
ここは、古くからの高級邸宅街D。
窓をあけ、助手席から眺める夫婦、風
間千恵(33)、司郎(30)。
千恵 「庭が凝ってるーーーーー!」
司郎 「いっこいっこの敷地がでけえよ!」
冒頭の二人のセリフにたどり着くまでの思考の過程が違うことに注目されたい。
映画では、場所の設定を美しい絵でこなしておいてから、二人のセリフへすぐつなぐ。
「彼らが何をするか」が映画だから、場所の設定はシンプルにする。
主人公千恵の性格や考え方を表現するのは、このあと彼女が何にどのように反応し、
行動するかで示していく。(次に、捨てられた植物の鉢を拾う場面がある)
一方小説版では、冒頭から彼女の思考が表現されている。
目の前の風景に重ね、彼女の詩的な心と植物に造詣が深いことを同時に設定している。
目の前を過ぎる風景は(動いているが)静止画である。
思考も静止画である。
(静止画を尊ばず、動きを尊ぶ映画版ではこの描写はない)
小説は過去形で、しかも静止画的なものを書くのに適している。
「描写する」という地の文の役割そのものが、動きではなく、絵画のデッサンのような言葉である。
小説版では、彼女がどういう人物であるか、またはあったか、が描写される。
つまり、wasで描写されるのだ。
「何をするか」より、「どうであったか」「どのように考えていたか」を、
より文字数を費やして書く事が出来るのである。
映画脚本のト書きに、これは書かない。
「どうであったか」「どのように考えていたか」は、彼女の言動で、
観客が「察する」ように書く。
一方、小説では、察するように書くよりは、
むしろそれが名文であることが理想であるような、筆致の極致をこらす。
今何が焦点か、行動の動機は何かを、書き添えることも可能だ。
何を無言でするかより、彼女がどう考えていたか、その内面の宇宙こそが小説の文章だ。
She Do 1, Do 2,... and at last Do X.が映画で、
She was 1, was 2,... and at last was X.が小説である。
描写の文字数が大きく異なる。
Doの内容は、やはり単純化するのが強いから、簡潔にするのが理想だ。
wasの内容は、より豊かに書く方が美文である。装飾的技巧的文章とはそのようなものだ。
(ときどき短い簡潔なものを入れると効果的だ)
小説でももちろんdidを書く。書くが、その分量より、
wasの内容を書く方が圧倒的多数になってゆく。
映画では、「彼女がどうであったかよりも、むしろ彼女が何をしたか」が彼女を表現する。
(セリフは嘘をつく。行動が真実を語る)
小説では、逆に、「彼女が何をしたかよりも、むしろ彼女がどう思い、どうあろうとしたのか」
が彼女を表現したことになる。
(セリフや行動より、地の文が真実を語る)
映像や芝居が根本の映画と、文章だけの小説の表現媒体の差は、
このように、表現する内容の性質まで、ときに真逆にしてしまうのだ。
これは、物語の内容の構造まで、まるで異なるものだということだ。
小説の映画化が困難な最大の理由はここだと思う。
小説で書かれた地の文のほとんどは、映画の文法では表現できない。
だから、映像で語る「動き」だけを抽出して脚本化することになる。
そのとたん、あんなに豊かだった小説世界が、急に痩せたものになってしまう。
それは当然であろう。小説は、Doの連鎖を中心に書いているとは限らないからだ。
wasの内容がとても面白い小説が、Doの連鎖だけ抜き出して面白い映画になる保証は、ない。
ないどころか、全然別のことを「面白い」と表現するメディアなのである。
そこを勘違いしたことが、たいていの小説映画化の失敗の原因である。
僕は「ノルウェイの森」は読んでなくて映画だけ見た。つまらなかった。
ある男が心を病んだ女とつきあい、別の女とつきあい、女が自殺して泣く、というDoの連鎖は、
単純に平凡だと思った。
モノローグで大層に説明されても、やってることは平凡じゃん、と思った。
小説の愛読者に聞いてみると、骨格だけ取り出すとあのようなつまらない話になるが、
書いている思考や考え方や文章そのものが上手く、それを味わうものらしい。
つまり、「ノルウェイの森」は、プロットの小説ではなく、描写の小説らしいのである。
プロット(Do)が面白い小説、というのがたくさんあるかどうかは分らない。
描写(was)が良いから、面白い小説、といわば勘違いすると、この感覚を映像化したい、
と思ってしまうのだろう。
古今東西の名作小説の映画化の困難は、
wasの連鎖を、Doの連鎖に置きかえられなかったこと、
(または原作内のDoの連鎖を面白いDoの連鎖に書き替えられなかったこと)
なのではないかと、思う。
様々な例を知らないので、自分の経験した範囲内での理解だが。
もしそうではない、こうなのだ、というのがあれば議論を深めたいので、コメントなどください。
2013年09月20日
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