2013年09月13日

障害の突破は、見た目は複雑に本質をシンプルに

映画の中盤は、障害競争のように、次々に来る障害を主人公(達)がのりこえる。
あれをするためにはこれをしなければならない、
人を説得する、話を聞きに行き謎をとく、あるものを手に入れる、
やつらより先に○○する必要がある、などが代表的だろう。
障害をうまく越えるには、一見複雑に思えるミッションをつくっておき、
それを、シンプルな本質で突破するのがよい。

「ゲートを守る門番を突破する」という古典的例題で、これを示そう。
ゲートキーパーは、あらゆる物語に登場する古典的障害である。

関所の突破や城への侵入などの時代劇の定番、貴族の舞踏会や王の誕生会への潜入、
スフィンクスの謎とき、トロイの木馬の故事などから、
警察の検問や国境警備の通過、秘密研究所の入り口の通過、
コンピューターの発達した現代でも、IDカードの偽造や認証クリアに至るまで、
(「ガタカ」という限定空間のSFでは、この突破がセンタークエスチョンだった)
どの時代や場所においても、必ずある障害のひとつだ。

まずは、問題を、必ず一見複雑に描いておく。

検問を厳しくする。最近事件が多いとか、近くで問題があったとかで。
特殊な発行券がないと無理、それは偽造出来ず、しかも日々それが変わる暗号がある、
検問には我々を知っている者がいない筈だが、我々の情報が出回っている可能性もある、
などだ。
これは時代劇でも、現代でも、SFでも通用する。
現代なら、虹彩や指紋認証やデジタルの最新技術をそこに入れ込むだけで話を複雑に出来る。

多分ミッションインポッシブル3だったか、
指紋認証の複雑なゲートを、ID登録された人の「切り落とした指」で突破したことがある。
なんという強引な、しかしシンプルな解決か。
ここが面白い所だ。

設定を複雑にしておきながら、突破をシンプルにするとおもしろくなる。

結局、物語は、人間ドラマのことだ。
守る側の人間の工夫と、突破する人間側の工夫の対決が、話を面白くする。

たとえば、
「人は権威に弱い」という人間の本質を利用して、
政府の高官に化ける潜入で、政治問題をちらつかせ、
たかが門番の判断で高度な面倒なことが起きると脅して、時間を稼ぐ、
などの方法がミッションインポッシブル4で使われていた。

セレブパーティの潜入などで、
ドレスアップした女が、ストッキングが伝線したので、それをエロく脱いで、
門番に「処分してくださる?」と渡す、なんてセクシーな「門番の目をそらして時間を稼ぐ」
シーンもポピュラーだろう。
(なぜガッチャマンでこれをやらん。セクシー女スパイの定番だろうが!)

結局、システムをいかに強固に組んでも、運用する「人間」を突破すればよい。
賄賂や、別のことに目をそらす、人間の間抜けさを利用するなど、
それらは、脚本家が、人間の性質にいかに通じているかで決まる。

複雑なゲートがあったとしても、指とか、権威に弱いとか、女の足に目がくらむとか、
そんな単純なことで人間は負けるのだ。

それが人間ドラマというものである。


複雑なルールを、複雑に解くのは、誰もが共感できない。
(数学の証明などは、分る人から見たら最高の娯楽だろう。
僕は理系なのだが、大学時代、フーリエ分解やオイラーの公式の証明、
中心極限定理などには感銘を受けたものだ。だが、それは一般的ではないだろう)
複雑なルールを、誰もが共感する人間の単純な本質で突破するから面白いのだ。


複雑なルールの障害を設定し、それをいかに面白く突破するか、というジャンルがある。
漫画「カイジ」のシリーズは典型だ。映画版は無視。
(特に「沼」編の知恵比べは最高だ。ビルを傾ける、という奇想天外!)
「ジョジョ」をはじめとする荒木飛呂彦作品もそうだろう。「魔少年BT」とかも。
ジョジョを端緒とする能力バトルものはこの系譜である。「ライアーゲーム」もこの系譜だろう。
博打やバトルにいかず、もう少し現実に寄せるなら、
ミステリーという広大なジャンルがある。殺人に限らなければ、謎解きのジャンルは奥深い。
映画でいえば、「CUBE」「ゲーム」「ソウ」あたりから、
ソリッドシチュエーションというジャンルが意識されたように思う。

これらの突破方法は、数学的な、パズルを解く的な面白さがある。
だから、好きな人はとことん好きなジャンルである。
その中でも、やはり人間ドラマ、人間の本質的性質を利用して突破する、
「カイジ(漫画版)」、フィンチャーの「ゲーム」あたりは格が違うように感じる。


障害の突破は、問題を一見複雑にして、突破はシンプルに。
しかも、人間の本質的性質を利用して。
それが物語を面白くするコツだ。

逆に、今回は人間のこのような(愚かな)側面を描きたいから、このような障害を用意する、
という逆算で障害を設定してもよいだろう。

人間の側面は、それをそのまま描いても(たとえば「ストッキングを脱ぐ女を見たい」男を描く)、
ただの写生である。
このように、ドラマに入れ込むことが、人間を描く、ということなのである。
posted by おおおかとしひこ at 14:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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