「主人公を好きになること」が感情移入ではない。
「主人公のおちいった状況に関心を持ち」、
「主人公の行動の行く末が見たくなること」が感情移入である、という話。
感情移入への初歩的な誤解は、「主人公が好きになること」だと思いこんでいることだ。
「主人公は人気俳優でなければならない」という強迫観念や、
「主人公はターゲット層と同じ年齢と社会環境である」という先入観、
「働く女なら誰もが共感するシチュエーション」などを入れて安心すること、
などは全てこの誤解から出発している。
感情移入は、「全ての人が、同程度に出来ること」が実は物語の最低条件なのだ。
そうでなければ、物語が、多くの人に楽しめることと関係がなくなってしまう。
近親者を亡くした人が、誰かを失う物語により強く反応するのは、
感情移入ではなく共感である。
彼氏が意気地なしで、仕事もうまく行かない女の話に、OLちゃんが強く反応するのも、
感情移入ではなく共感である。
ペット好きな人が、犬や猫の物語に強く反応するのは、
感情移入ではなく共感である。
誰かを亡くした人でなくとも、OLちゃんでなくとも、犬を飼った事がなくても、
誰かを失う痛みを主人公と同じように共有し、
彼氏と仕事の不満に主人公と同じぐらい不満を持ち、
犬の心配を、主人公と同じぐらい心配することが、
本当の感情移入である。
その努力をせずに、
ターゲット層が共感できる内容を安直に並べたり、そこに人気俳優を並べて釣ったり、
ターゲット層に近い像を並べる事で、物語を安易な方向にしている。
これが脚本の空洞化の原因のひとつだ。
感情移入とは、
最終的には、主人公の感情と同じ感情に観客が至ることである。
彼または彼女の悩みに同じぐらい悩み、喜びや痛みや悲しみを同じぐらい味わい、
カタルシスを同じように味わって、物語を終えなければならない。
だからこそ、映画は見る価値があるのだ。
繰り返す。「主人公と同じ立場でなくても」、
まるで同じ立場にいるように思わせることが、感情移入だ。
たとえ子供の話でも、老人の話でも、女の話でも、
そうでない人が見ても同じぐらい感情移入出来なければ、
多くの人に見てもらう物語ではない。
ターゲット層を決めることは、「感情移入」から逃げている。
人間は、自分と近しい人に興味が湧く性質がある。
外面だけで映画を見ていると、そういう誤解に至る。
本当の感情移入のさせ方は、「内面に自分と近いもの」を描くのである。
「これは私個人の人生で一度も経験したことがないが、
もし私がこの主人公の立場になったら、同じ事を感じ、思い、行動するだろう」
と思わせるのだ。
「こんな立場に私個人は一度も立ったことはないが、この人の感情は理解できる。
何故なら、文脈は色々違うけど、私も同じ感情を持ったことがあるからだ」
と思わせるのだ。
この感情を抱かせることに成功すると、主人公の感情と自分の感情を一致させていくようになる。
主人公の冒険の旅の一喜一憂を、我が事のように一喜一憂するようになる。
これがほんとうの感情移入だ。
結果的に、主人公を好きになるだろう。
二時間もそんな旅を続ければ、誰でもその主人公を好きになる。
つまり、「主人公は好かれなければならない」という正論は、入口ではなく出口なのである。
だから、主人公は、「一般的に好かれる人物」である必要は必ずしもない。
悪人であっても、人非人であっても、だらしなくても、尊敬できなくても、もてなくても、嫌いな性格でもいい。
勿論好かれる人であってもいい。
正義漢でも、委員長でも、モテ男でも、面白い人でも、優秀な人でもいい。
どっちでもない人でもいい。
どうあっても、「そうでない全ての人に」感情移入させることが、
脚本家に課せられた仕事なのである。
「風魔の小次郎」を例にとると、無名の役者達が殆どであったドラマだ。
誰も最初から好かれていない。視聴者は誰も好きでない状態からスタートするし、
ましてや学ランを着る忍びでもない。高校生ですらないだろう。
にも関わらず、最終話に至ると、みんな小次郎達が好きになっている。
それは小次郎達の冒険を、我が事のように思って、
心配し、熱くなり、悲しみを分り、喜びを共有し、
危険を跳ね返す勇気にどきどきし、大切な人への距離の保ち方に思いの深さを知ったからである。
平たく言うと、感情移入が正しく出来たからである。
人気俳優や、ターゲット層と似た環境を持って来るのは、
「最初に関心をひかせること」以外には役に立たない。
(内容と外れた人気俳優を使うのが、映画の空洞化の一因であることは、誰もが感じていることだ)
何故なら、本当の感情移入とは、誰であっても、主人公がどうであっても、出来ることだからだ。
その人気俳優やシチュエーションありきで話をつくることは、
本当の感情移入には、相反する要素である。邪魔なのだ。
だから、面白い物語が、その要素で潰れていくのだ。
感情移入のやり方は、
まず、
「主人公のおちいった状況に関心を持つ」ことからはじまる。
「目が覚めたら、部屋で足が繋がれ死体が転がっている」(ソウ)、
「しがないロートルボクサーに世界戦のチャンスが回って来る」(ロッキー)、
「タイムスリップして戦国時代を取材中、この時代の者でない何者かに茶器を奪われる」(タイムスクープハンター)、
「突然ヘンな人にあとをつけられる」(ミツコ感覚。ここしか面白くなかったけど)
「つまらない日常に、素敵な転校生がやってきた」(よくある恋愛もののパターン)
などがある。
異物論で言う所の、異物との出会いだ。
このシチュエーションを、うまくつくることが、ACT 1の一番大事なことである。
この面白い状況に偶然おちいった主人公が、「どうやって脱出するかに興味がある」、
つまり、この先を見たい、と思わせたら感情移入の第一歩は成功である。
この状況をどう脱出するかに興味を持てない、まあどうでもいいや、
と思われたら、どんなに魅力ある主人公や俳優でも、その先はない。
何故なら、「この困った事態の解決」こそが焦点だからだ。
映画とは、焦点を追う物語形式である。
事態の解決に興味が持てなければ、それは焦点を失うことだ。
だから、最初の焦点は、これからはじまる一連の焦点と行動の連鎖の入り口として、
最も大事なのだ。
そこに入れなければ、一連のものに入ってこれないだろう。
勿論、すごく気を引くような状況をつくる手もあるが、
(「千年女王」は、家に帰ったら突然爆発する、というところからはじまった)
あまりそこだけが面白いと、次へ繋がらなくなりがちだ。
(冒頭が一番面白くなるだけ。ガッチャマンのように)
コツとしては、ちょっと気を引く、ぐらいがちょうどいい。
上の例だと、「つまらない日常に、素敵な転校生がやってきた」は使い古されたパターンだから、
気を引くのはやや弱い。
弱いから、これに「もてるのに私だけと話してくれない(または私にしか話さない)」
「実は○○」などで変化球をつけるのが常識。
さて、面白いシチュエーションに主人公がおちいって、それをどうやって脱出するか見てみたい、
という最初の物語のベクトルが出来たら、それで感情移入が即起こる訳ではない。
次は、「主人公が行動する」ことが必要だ。
それによって(成功でも失敗でも)、事態が動く。
映画とはその動きを描く。
その行動によって、主人公に注目するのだ。
そのうち、主人公に関するいい話が挿入されるだろう。
そうやって、行動する、いい話を持った男(または女)として主人公を描き、
だんだんと彼(または彼女)の魅力を描いていくのである。
そうこうしているうちに事態はまた動き、主人公は行動せざるを得なくなる。
このループが、感情移入を増幅させてゆく。
最初の一歩でつまづくと、このループには巻き込めない。
初手の大事さは、ハリウッドでも強調される。
ファーストロール(冒頭10分〜15分)で観客の興味を引けないと駄目だ、という経験則だ。
だめな脚本家は、そこに派手なアクションを入れて、目を引くことだけを考える。
ガッチャマンで我々が目撃したように、それは浅薄なやり方である。
「主人公への感情移入のための、脱出したくなる面白い最初の状況をつくれ」という意味の格言なのに。
つまり、ファーストロールは、
「興味を引くに値する、脱出すべき面白いシチュエーションを設定する」のに使うべきなのだ。
三幕構成と感情移入の関係は、以下のようである。
ACT 1
主人公の背景の説明(説明であり、感情移入には至らない。同情を引くことや笑わせることは出来る)
主人公のおちいった状況に興味を持たせ、どうやって脱出するか気にさせる
(感情移入のファーストステップ)
主人公が行動する
(興味が方向性を持ち、主人公とともに歩む感覚になる)
その成否でターニングポイントが訪れ、焦点が変わる
(ここが面白いと、興味は更に増幅する)
主人公の感情を少しずつ出す。彼の反応は誰がそのようになったとしても当然のものである
(観客は既に興味として巻き込まれているので、彼と感情を共有する)
何回かくりかえす(映画によって一回から数回)
第一ターニングポイント。
物語が大きく動き、映画全体で解決すべきセンタークエスチョンが分る。
主人公は、日常とは違うその冒険の旅へ出る決意をする。
(ここで興味が持てず、主人公の気持ちにある程度なれなければ、映画は失敗)
ACT 2
主人公の行動や感情を共有するループの中で、
彼独自の事情や感情を引き出し、
主人公への理解を深める(理性的)一方、彼なりのいい面を描く(感情的)。
これで、主人公が好きになってゆく。
(興味を持つ人を深く知っていくと、そのギャップも含め、その人を好きになっていく原理)
主人公が好きになったらしめたもの。
(人生と同じで、一目ぼれはなかなかない。時間をかけて、人は人を好きになるものだ)
あとは、彼の行動(焦点の行方)に身をまかせつつ、
彼の感情を味わう(感情の共有)。
ここまで来ると、感情移入は半ば以上完成している。
主人公の感情を、我が事のように思えるようになってくる。
彼は自分から行動する。だから責任を持つ。その公正さに、感情移入をしやすくなる。
ズルをしたり、責任を逃れると嫌われるのは、現実社会でも映画の中でも同じである。
(ズルをしたり責任逃れをするのを競う世界では、この限りではない)
彼は成功したり失敗したりする。
喜怒哀楽、危険や悔しさや痛みや後悔や絶望、ほのかな希望や悦楽や嬉しさを味わう。
強い感情に揺さぶられるほど、主人公と感情を共有する観客は感情を揺さぶられる。
(初手から強い感情にせず、徐々に振幅を大きくしてゆく。人との付き合いと同じだ)
物語はまだ終わらない。
最初に起こった事件から、いままでの全ての伏線は、まだ完全解決していない。
それが、あと一個だけ突破すれば解決できる、という一点がやってくる。
第二ターニングポイントである。
あとはその解決に、最後の危険に、最後の戦いを挑めばよいだけになる。
山場である。
ACT 3
ここまで主人公に感情移入がうまくいっていれば、
あとはただ楽しむだけだ。
そして、最後の大勝利のカタルシスを、主人公同様に味わうのだ。
主人公のカタルシスこそ、観客のカタルシスと同一になる。感情移入の完成である。
ラストシーン、主人公にとってのこの冒険の意味が定着する。
それこそが映画のテーマとなる。
そのテーマとともに、主人公への好きという感情は、永遠のものになるであろう。
感情移入という視点ですら、三幕構成にはそれぞれの役割があることが分るだろう。
この三連休で、
「キャプテンハーロック」「恋の渦」「上京ものがたり」「タイムスクープハンター」を見た。
どの映画も主人公への感情移入がうまく出来ていなかった。
その中でも一番の佳編「タイムスクープハンター」を例に、感情移入について、次回もう少し議論しよう。
2013年09月17日
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