2013年09月17日

感情移入とはなにか

「主人公を好きになること」が感情移入ではない。
「主人公のおちいった状況に関心を持ち」、
「主人公の行動の行く末が見たくなること」が感情移入である、という話。

感情移入への初歩的な誤解は、「主人公が好きになること」だと思いこんでいることだ。
「主人公は人気俳優でなければならない」という強迫観念や、
「主人公はターゲット層と同じ年齢と社会環境である」という先入観、
「働く女なら誰もが共感するシチュエーション」などを入れて安心すること、
などは全てこの誤解から出発している。

感情移入は、「全ての人が、同程度に出来ること」が実は物語の最低条件なのだ。
そうでなければ、物語が、多くの人に楽しめることと関係がなくなってしまう。

近親者を亡くした人が、誰かを失う物語により強く反応するのは、
感情移入ではなく共感である。
彼氏が意気地なしで、仕事もうまく行かない女の話に、OLちゃんが強く反応するのも、
感情移入ではなく共感である。
ペット好きな人が、犬や猫の物語に強く反応するのは、
感情移入ではなく共感である。

誰かを亡くした人でなくとも、OLちゃんでなくとも、犬を飼った事がなくても、
誰かを失う痛みを主人公と同じように共有し、
彼氏と仕事の不満に主人公と同じぐらい不満を持ち、
犬の心配を、主人公と同じぐらい心配することが、
本当の感情移入である。

その努力をせずに、
ターゲット層が共感できる内容を安直に並べたり、そこに人気俳優を並べて釣ったり、
ターゲット層に近い像を並べる事で、物語を安易な方向にしている。
これが脚本の空洞化の原因のひとつだ。

感情移入とは、
最終的には、主人公の感情と同じ感情に観客が至ることである。
彼または彼女の悩みに同じぐらい悩み、喜びや痛みや悲しみを同じぐらい味わい、
カタルシスを同じように味わって、物語を終えなければならない。
だからこそ、映画は見る価値があるのだ。

繰り返す。「主人公と同じ立場でなくても」、
まるで同じ立場にいるように思わせることが、感情移入だ。

たとえ子供の話でも、老人の話でも、女の話でも、
そうでない人が見ても同じぐらい感情移入出来なければ、
多くの人に見てもらう物語ではない。
ターゲット層を決めることは、「感情移入」から逃げている。

人間は、自分と近しい人に興味が湧く性質がある。
外面だけで映画を見ていると、そういう誤解に至る。
本当の感情移入のさせ方は、「内面に自分と近いもの」を描くのである。
「これは私個人の人生で一度も経験したことがないが、
もし私がこの主人公の立場になったら、同じ事を感じ、思い、行動するだろう」
と思わせるのだ。
「こんな立場に私個人は一度も立ったことはないが、この人の感情は理解できる。
何故なら、文脈は色々違うけど、私も同じ感情を持ったことがあるからだ」
と思わせるのだ。
この感情を抱かせることに成功すると、主人公の感情と自分の感情を一致させていくようになる。
主人公の冒険の旅の一喜一憂を、我が事のように一喜一憂するようになる。
これがほんとうの感情移入だ。

結果的に、主人公を好きになるだろう。
二時間もそんな旅を続ければ、誰でもその主人公を好きになる。
つまり、「主人公は好かれなければならない」という正論は、入口ではなく出口なのである。


だから、主人公は、「一般的に好かれる人物」である必要は必ずしもない。
悪人であっても、人非人であっても、だらしなくても、尊敬できなくても、もてなくても、嫌いな性格でもいい。
勿論好かれる人であってもいい。
正義漢でも、委員長でも、モテ男でも、面白い人でも、優秀な人でもいい。
どっちでもない人でもいい。
どうあっても、「そうでない全ての人に」感情移入させることが、
脚本家に課せられた仕事なのである。


「風魔の小次郎」を例にとると、無名の役者達が殆どであったドラマだ。
誰も最初から好かれていない。視聴者は誰も好きでない状態からスタートするし、
ましてや学ランを着る忍びでもない。高校生ですらないだろう。
にも関わらず、最終話に至ると、みんな小次郎達が好きになっている。
それは小次郎達の冒険を、我が事のように思って、
心配し、熱くなり、悲しみを分り、喜びを共有し、
危険を跳ね返す勇気にどきどきし、大切な人への距離の保ち方に思いの深さを知ったからである。
平たく言うと、感情移入が正しく出来たからである。


人気俳優や、ターゲット層と似た環境を持って来るのは、
「最初に関心をひかせること」以外には役に立たない。
(内容と外れた人気俳優を使うのが、映画の空洞化の一因であることは、誰もが感じていることだ)
何故なら、本当の感情移入とは、誰であっても、主人公がどうであっても、出来ることだからだ。
その人気俳優やシチュエーションありきで話をつくることは、
本当の感情移入には、相反する要素である。邪魔なのだ。
だから、面白い物語が、その要素で潰れていくのだ。


感情移入のやり方は、
まず、
「主人公のおちいった状況に関心を持つ」ことからはじまる。

「目が覚めたら、部屋で足が繋がれ死体が転がっている」(ソウ)、
「しがないロートルボクサーに世界戦のチャンスが回って来る」(ロッキー)、
「タイムスリップして戦国時代を取材中、この時代の者でない何者かに茶器を奪われる」(タイムスクープハンター)、
「突然ヘンな人にあとをつけられる」(ミツコ感覚。ここしか面白くなかったけど)
「つまらない日常に、素敵な転校生がやってきた」(よくある恋愛もののパターン)
などがある。
異物論で言う所の、異物との出会いだ。

このシチュエーションを、うまくつくることが、ACT 1の一番大事なことである。


この面白い状況に偶然おちいった主人公が、「どうやって脱出するかに興味がある」、
つまり、この先を見たい、と思わせたら感情移入の第一歩は成功である。
この状況をどう脱出するかに興味を持てない、まあどうでもいいや、
と思われたら、どんなに魅力ある主人公や俳優でも、その先はない。
何故なら、「この困った事態の解決」こそが焦点だからだ。
映画とは、焦点を追う物語形式である。
事態の解決に興味が持てなければ、それは焦点を失うことだ。

だから、最初の焦点は、これからはじまる一連の焦点と行動の連鎖の入り口として、
最も大事なのだ。
そこに入れなければ、一連のものに入ってこれないだろう。

勿論、すごく気を引くような状況をつくる手もあるが、
(「千年女王」は、家に帰ったら突然爆発する、というところからはじまった)
あまりそこだけが面白いと、次へ繋がらなくなりがちだ。
(冒頭が一番面白くなるだけ。ガッチャマンのように)
コツとしては、ちょっと気を引く、ぐらいがちょうどいい。

上の例だと、「つまらない日常に、素敵な転校生がやってきた」は使い古されたパターンだから、
気を引くのはやや弱い。
弱いから、これに「もてるのに私だけと話してくれない(または私にしか話さない)」
「実は○○」などで変化球をつけるのが常識。


さて、面白いシチュエーションに主人公がおちいって、それをどうやって脱出するか見てみたい、
という最初の物語のベクトルが出来たら、それで感情移入が即起こる訳ではない。

次は、「主人公が行動する」ことが必要だ。
それによって(成功でも失敗でも)、事態が動く。
映画とはその動きを描く。
その行動によって、主人公に注目するのだ。
そのうち、主人公に関するいい話が挿入されるだろう。
そうやって、行動する、いい話を持った男(または女)として主人公を描き、
だんだんと彼(または彼女)の魅力を描いていくのである。
そうこうしているうちに事態はまた動き、主人公は行動せざるを得なくなる。
このループが、感情移入を増幅させてゆく。

最初の一歩でつまづくと、このループには巻き込めない。
初手の大事さは、ハリウッドでも強調される。
ファーストロール(冒頭10分〜15分)で観客の興味を引けないと駄目だ、という経験則だ。

だめな脚本家は、そこに派手なアクションを入れて、目を引くことだけを考える。
ガッチャマンで我々が目撃したように、それは浅薄なやり方である。
「主人公への感情移入のための、脱出したくなる面白い最初の状況をつくれ」という意味の格言なのに。
つまり、ファーストロールは、
「興味を引くに値する、脱出すべき面白いシチュエーションを設定する」のに使うべきなのだ。


三幕構成と感情移入の関係は、以下のようである。

ACT 1
主人公の背景の説明(説明であり、感情移入には至らない。同情を引くことや笑わせることは出来る)
主人公のおちいった状況に興味を持たせ、どうやって脱出するか気にさせる
(感情移入のファーストステップ)
主人公が行動する
(興味が方向性を持ち、主人公とともに歩む感覚になる)
その成否でターニングポイントが訪れ、焦点が変わる
(ここが面白いと、興味は更に増幅する)
主人公の感情を少しずつ出す。彼の反応は誰がそのようになったとしても当然のものである
(観客は既に興味として巻き込まれているので、彼と感情を共有する)
何回かくりかえす(映画によって一回から数回)
第一ターニングポイント。
物語が大きく動き、映画全体で解決すべきセンタークエスチョンが分る。
主人公は、日常とは違うその冒険の旅へ出る決意をする。
(ここで興味が持てず、主人公の気持ちにある程度なれなければ、映画は失敗)

ACT 2
主人公の行動や感情を共有するループの中で、
彼独自の事情や感情を引き出し、
主人公への理解を深める(理性的)一方、彼なりのいい面を描く(感情的)。
これで、主人公が好きになってゆく。
(興味を持つ人を深く知っていくと、そのギャップも含め、その人を好きになっていく原理)
主人公が好きになったらしめたもの。
(人生と同じで、一目ぼれはなかなかない。時間をかけて、人は人を好きになるものだ)
あとは、彼の行動(焦点の行方)に身をまかせつつ、
彼の感情を味わう(感情の共有)。
ここまで来ると、感情移入は半ば以上完成している。
主人公の感情を、我が事のように思えるようになってくる。

彼は自分から行動する。だから責任を持つ。その公正さに、感情移入をしやすくなる。
ズルをしたり、責任を逃れると嫌われるのは、現実社会でも映画の中でも同じである。
(ズルをしたり責任逃れをするのを競う世界では、この限りではない)
彼は成功したり失敗したりする。
喜怒哀楽、危険や悔しさや痛みや後悔や絶望、ほのかな希望や悦楽や嬉しさを味わう。
強い感情に揺さぶられるほど、主人公と感情を共有する観客は感情を揺さぶられる。
(初手から強い感情にせず、徐々に振幅を大きくしてゆく。人との付き合いと同じだ)
物語はまだ終わらない。
最初に起こった事件から、いままでの全ての伏線は、まだ完全解決していない。
それが、あと一個だけ突破すれば解決できる、という一点がやってくる。
第二ターニングポイントである。
あとはその解決に、最後の危険に、最後の戦いを挑めばよいだけになる。
山場である。

ACT 3
ここまで主人公に感情移入がうまくいっていれば、
あとはただ楽しむだけだ。
そして、最後の大勝利のカタルシスを、主人公同様に味わうのだ。
主人公のカタルシスこそ、観客のカタルシスと同一になる。感情移入の完成である。
ラストシーン、主人公にとってのこの冒険の意味が定着する。
それこそが映画のテーマとなる。
そのテーマとともに、主人公への好きという感情は、永遠のものになるであろう。


感情移入という視点ですら、三幕構成にはそれぞれの役割があることが分るだろう。


この三連休で、
「キャプテンハーロック」「恋の渦」「上京ものがたり」「タイムスクープハンター」を見た。
どの映画も主人公への感情移入がうまく出来ていなかった。
その中でも一番の佳編「タイムスクープハンター」を例に、感情移入について、次回もう少し議論しよう。
posted by おおおかとしひこ at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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