2013年09月18日

感情移入とはなにか2: 「タイムスクープハンター劇場版」で検証

「タイムスクープハンター劇場版」はなかなかの佳作脚本である。
練りこまれたプロット、名もなき人達のドラマ(ちょっと名がある侍と豪商だが)、
必要十分に練られた人物配置、ラストの安土城焼失の結局謎が解けてないけど解けている感じ。
謎の犯人を追い、茶器という小道具をめぐるという焦点を保つ上手さ、
ちょっとしたどんでん返し(内部犯行はパターンだけど)、
技術的に相当練られた脚本だと思った。

だが、ひとつだけ、一番大事な所が足りなかった。
それは、主人公への感情移入なのだ。

映画は、練られた物語であることが必要である。
その練られた物語が、なによりの見世物の内容だからだ。
主人公沢嶋をのぞいた他の部分は、実によく練られた宇宙を形成していた。

問題は、その中心である、沢嶋自身に物語がなかった。

テレビレギュラーシリーズでは、沢嶋自身がカメラマン兼レポーターをつとめ、
歴史を改変しないという枷のもと、沢嶋は観察者に徹する必要があり、
(いくらでも続ける宿命の)シリーズだからこそ、沢嶋自身に物語は必要ない。

だがこれは映画版だ。一本の完結した物語だ。
テレビシリーズとはうまく住み分けなければならない。
お手本はもはや古典である「ルパン三世カリオストロの城」「のび太の恐竜」にある。
レギュラーシリーズでは扱えないほどの大事件に遭遇すること、
レギュラーシリーズでは扱えない主人公の内面的事情や個人的成長に触れることだ。
(なおかつ、その大冒険が終わっても、元のシリーズに上手く戻さなければならないので、
成長しすぎるのはだめだ)
ルパンでは、彼がまだ若かったころの唯一の汚点、ゴート札が今回のヤマの中心になり、
過去と向き合わざるを得なくなる。
ドラえもんでは、のび太自身が、唯一の得意技を見つけて使う、という成長が描かれる。

それと照らし合わせれば、タイムスクープハンター沢嶋の内面や個人的な話が、描かれるべきなのだ。

照らし合わせなくとも、映画とは人間の物語である。
人間を描く対象こそは、主人公のことだ。
感情移入は主人公に最も行われる。
主人公の感情の振れ幅が最も大きく、葛藤は最も大きく、
事件解決のモチベーションは最も大きく、物語終了後の変化も最も大きくあるべきである。
冒険の末の主人公の変化こそがテーマに直結するからだ。

映画は、この物語形式になっていなければならない。
そうでなければ映画を見た、という感じではない。
テレビスペシャルでいいや、という感想は、これは映画と呼ぶに値しない、ということであり、
それは、この物語形式になっていない、ということなのである。


沢嶋は、この映画では、巻き込まれ型の主人公だ。
何ものかに茶器を奪われ、歴史改変の危機に陥る、という異物に出会う。
解決への動機も十分、導入も面白く、おちいったシチュエーションの最初の興味、
という感情移入への第一のポイントを楽々クリアしている、上々の滑り出しだ。

しかも、沢嶋個人の哲学「名もなき人の歴史こそが歴史である」という考えへの
アンチテーゼが、新人としてコンビを組まされる。夏帆演じるヒカリである。

真逆の考え方を持つ彼女と対立して、沢嶋の個人的過去が暴かれたり、
沢嶋の個人的考え方が変化を受けたり、沢嶋の個人的立場が危うくなることが、
沢嶋自身の物語があることだ。
この映画では、残念ながらこれを省略してしまった。

85年の喫茶店での会話、第一を希望するヒカリと第二の重要性を説く沢嶋を見てぞくぞくした。
このあと、「歴史をつくるのは、本当は誰なのか」についての対立ドラマがあることを期待したからだ。
それが安土城焼失というビッグシーンのクライマックスに至ることを期待したからだ。
勿論映画であるから、沢嶋の主張のほうが正しい、と映画内ではなるはずだ。
(沢嶋が間違いを認める、というラストもありえるが、
シリーズの根幹が「名もなき人の動きを追う」である以上、
沢嶋の主張が最後に勝利をおさめることは明らかだ)

さあ見せてくれ。どんな名もなき人と、名のある人のドラマが、
安土城焼失という大事件にどう絡むのか。
そしてそれは、沢嶋の公的ではなく私的な人間としての、どのようなドラマと関わり合うのか。
冒険の果て、ヒカリが第一ではなく第二を希望します、と期待されるラストシーン。

なかった。


タイムスリップものの王道、戦国時代の女の子と恋をする、でもよかった。
ヒカリと袂を分ったり、彼女と恋をする話に発展してもよかった。
真犯人宝生舞と、恋人関係があってもよかった。
あるいは沢嶋が第一から第二へ主張を変えた重大な個人的事件に、
今回の事件が絡んできてもよかった。
映画鑑賞中、そのようなドラマを想像した。数秒でぽっと考えたパターンだ。
これを越える、練られたドラマを、冒頭の出来からACT 2に期待した。

どれも、なかった。

ACT 2前半は、85年、45年へのタイムスリップに費やされ、
沢嶋の個人的物語は何もはじまらなかった。
80年代の喫茶店で交わされた会話から、感情移入した沢嶋への思いは、
元の戦国の川岸に戻る頃にはすでに失われていた。

あとは野盗につかまろうが、豪商を安土城に取り戻しに行こうが、
安土城焼失の謎が残っていようが、どうでもよくなる。
侍と野盗のドラマもよく出来ていて、時任三郎、島田久作、上島竜兵の芝居は抜群だった。
しかし、沢嶋が空気だった。
物語の中心にいなかった。今回はレギュラーの話ではない、映画だ。
主人公沢嶋が事態を動かさなくて、誰が主人公だというのか。
だからクライマックスで太股を撃たれても全然ハラハラしない。
沢嶋が命をかける価値とは何か、太股を撃たれそれでもなお前へ出る執念は何か、がないから、
まあどうせ助かるんでしょ、夏帆に出番を渡すご都合主義なのね、
どうせこいつが安土城焼失の犯人に偶然なるように進んでいくのね、
と、派手な良く出来た戦闘や銃のCGの出来の良さとは裏腹に、
急速にどうでもよくなっていくのだ。

たとえば、歴史をつくるのは名もなき人々である、「その中に私もいるのだ」、
という沢嶋個人の発見があったらどうだろう。
歴史改変を止めた無名の英雄こそ今回の沢嶋であった、という話ならテーマとも絡む。
第一で活躍して社会的に称賛されている、有名タイムスクーパー達へのコンプレックス
(たとえばそれが元恋人宝生舞とか)があってもいい。

そのような個人的話が根幹にないから、沢嶋は空気なのだ。

つまり、彼には個人的モチベーションがない。
行動の動機が仕事でしかない。
仕事をする公務員には、人は感情移入しない。
だが妻を殺された刑事が犯人逮捕に向かう姿や、
911で家族を失った消防士が二度と悲劇を繰り返さないように戦う姿には、人は感情移入する。
その人の個人の思いが見えないと、感情移入は起こらないのである。


否、主人公は名もなき人々であるから、
今回の侍、時任三郎が主人公だ、という反論があるとしよう。
しかしそれなら沢嶋は必要ない。
テレビシリーズでは、沢嶋はカメラマンだったが、
今回は沢嶋以外の客観視点、つまり通常の映画のキャメラがメインだ。
だとすれば、沢嶋はカメラを構えた状態で画面にうつる、ただの背景でよかった。

時任三郎と上島竜兵の友情を中心に、もっと濃いドラマを描けばよかったのだ。
時任三郎がなぜ侍になったのか、御屋形様はどういう人であったのか、
上島を託した男とどういう関係があったのか、
自らの危険を顧みず彼を博多まで届ける彼に、感情移入するドラマが欲しかった。
ところがそうではない、
タイムスクープ社のドラマを見るにつけ、一応主人公は沢嶋のようである。


ネットの感想などを見ていても、85年45年のパートはいらない、と考える向きが多い。
いる、と考える制作サイドの思いも分る。
タイムスリップによるタイムパラドクスの面白さを描きたい気持ちも、
興味深い近代をバラエティー豊かに描きたい気持ちも分る。
戦国時代のドラマを薄めているから不要というネットの意見も分る。
だがそれは感情論だ。
そのパートは、「主人公の物語にどのように関係するべきか」で議論されるべきなのだ。

主人公の思いを語る喫茶店のシーンは、主人公の物語に絶対的に必要だ。
だがこれは85年の喫茶店以外でも出来るシーンだ。
沢嶋たちが再び戦国時代に戻ったミッドポイント以降に、
どのような主人公の物語があるべきか、それによって85年45年パートの必要性が議論されるべきだ。

そもそもそれ以降に主人公の物語がないので、
それはどっちでもよい、という結論になる。好みの問題、という結論だ。
僕自身は、楽しめたのでまあいいけど、安土城をもっと見たかったので、
ない方がよかったなあ、ぐらいの「感情」しか持ちえない。(ゼビウスには超反応したけど)


感情移入とはなにか。

それは、主人公の行動を我が事のように思うことだ。
主人公の感情を、我が事のように思うことだ。
それには、主人公の背景が必要なのだ。
彼が何を思い、どういう事情があって物語に登場し、どういう個人的関わりがあるか。


少なくともACT 1のファーストロールで、それを描くべきだった。
トップシーン、本能寺の変以後、オープニング明けのシーンで、
沢嶋の個人的背景を描くべきだった。
(最悪脚本ガッチャマンでも、オープニングバトル明けにテンションが
だだ下がったことを思い出そう。張り倒し型のシナリオは、張り倒したあとがアキレス腱)

今回の任務に出動する前を描き、そこで個人的事情を明かしておくべきだった。
(ヒカリへの語りはACT 2でもよい)
その個人的事情ゆえに、ACT 2では彼自身が、彼個人の判断で、なにかの行動を起こすべきだった。
(たとえば歴史改変のおそれのある、社からの命令を無視するような危険な行動)
それがミッドポイント以降にあり、
その結果と侍と野盗たちのドラマの決戦が、クライマックスの安土城へ向かうべきだった。


つまり、この映画は、
ファーストロール、ACT2、ACT 3、つまりヒカリとの会話場面以外、
全ての場面で感情移入に失敗しているのである。


実に残念だ。
主人公の物語以外、すべてよく出来ているからだ。
安土城焼失という歴史ミステリーの題材もよい。
ビッグシーンだし、そのとき城に人がいなかった、という事実も面白い。
そこに記録に残らない無名の人々がなにかをしでかす、なんて舞台装置は最高ではないか。

舞台装置という「静止画的アイデア」までは完璧だったのに、
肝心の主人公の物語が、構築できなかったのだ。

まさに、空洞化である。



感情移入の話、つづけます。
「ドラマは葛藤である」は誤訳である、という話をします。
posted by おおおかとしひこ at 18:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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