主人公は危機に陥らねばならない。
命の危険、社会的立場の危険、地球滅亡の危険、このままだと○○が駄目になる危険。
その危険を乗り越えることが映画の中心である。
事件の解決は、危険を伴うからこそハラハラが起こる。
完璧な男がただ処理をする話には起伏がない。
しかしハラハラだけでは感情移入は起こらない。
金のかかったビッグシーンを見たり、新しい技術によるすごいシーンを見たり、
どんでん返しに次ぐどんでん返しや、伏線であっと言わせたり、知的ゲームを存分に楽しんでも、
それは「面白いショウ」を見ただけだ。「タイムスクープハンター劇場版」のように。
テレビスペシャルで十分、と言われるその脚本には何が足りないのか。
それが「映画」の格に至るのは、何が必要なのか。
僕は、主人公のアイデンティティークライシスである、という説を出そうと思う。
主人公が完璧で鉄面皮のものは、映画ではない。
完全無欠のヒーローは、ロボットであり人間ではないからだ。
人間には、必ず弱点や、良くない所や、触れて欲しくない所や、上手く行っていない所がある。
映画は人間を描く、ということは、
映画は、人間の脆い敏感な所に触れずしては成立しない、ということと同義である。
よくできた物語は、必ず、主人公の一番痛い所を突いてくるように問題が起きる。
それ以外の全ての他のことなら、主人公は社会に見せる外面のまま、事件を解決しただろう。
しかし今回だけは違う。
今回に限って、主人公は「従来の自分の枠」を崩すリスクを犯す必要に迫られるのだ。
ここを描かないと、映画は映画ではない、とするのが僕の説である。
主人公は目的を達する為には、自己の弱点を「克服」する必要がある。
だから主人公は、自我の危機(アイデンティティークライシス)に晒される。
内気な男が、恋した美女をゲットする、ボーイミーツガール型の物語を例に出すと、
目的のためには、内気な自分を「変える」必要が出てくるのである。
そのために、彼は冒険をしなくてはならない。
従来の自分が、一端壊れるような冒険をして、自分をつくりかえる必要があるのである。
トラウマの克服がいっとき流行ったのも、
この新しいパターンをアメリカの精神分析から輸入したからである。
弱点の克服、は代表的なパターンだが、
才能があるはずなのに腐っている、それは自分のせいなのだ(「ロッキー」)、
この世界に違和感を持っているが誰にも言えない(「マトリックス」)など、
色々なパターンがあるだろう。
その新しいパターン(テーゼ)を思いつくのが、映画のテーマを決めることと同義である。
内気な男の例で言うと、
彼の日常の世界で克服をする(たとえば勇気を出して告白する)のは間違いである。
彼の身の回り以外の、「別の世界」での冒険が必要だ。
彼女と文化祭の係になり、遅くまで一緒に仕事をする(よくあるパターン)、
ファンタジー世界で冒険する(文化祭の準備が異世界に相当するが、もっとファンタジーに飛ばす)、
戦争で二人とも捕虜になる、
など、「日常とはかけ離れた事件」が必要である。
そこで、主人公は恋の事はとりあえずおいといて、
事件の解決のために内気な自分を克服する冒険をする。
その冒険の結果、本来の目的、彼女に告白する勇気と自信を得るのである。
従来の自己は、別世界の体験を通して新しい自己の可能性に気づき、
別世界からの帰還後、元の世界の従来の自己と統合して、新たな自分になる(成長)。
(この「別世界」をスペシャルワールドと呼ぶ物語論もある。)
精神分析に詳しい方は、これは精神治療そのものである事に気づかれるだろう。
我々が映画を見るほんとうの理由はこれだ。
新たな人格の統合を見ることで、我々は自分の精神治療をするのだ。
だから、敵をシャドウと呼ぶ場合もある。
敵とは、従来の自己とは全く「逆の」考え方、立場を持ち、かつ自己を殺そうとする。
自分はこれに打ち勝ち、新た自己を獲得する。
シャドウとは、敵ではなく、自己の逆の投影にすぎない。
つまり、(旧)自分と反自分の新たな統合=新自分こそが、結論になるべきなのである。
(だから、本質的に敵も主人公も、双方作者の分身なのだ)
カタルシスは精神的な浄化、昇華を意味する精神分析的用語である。
何故映画のラストにカタルシスを感じるのか。
それは、統合の過程で、我々は自分の精神を治療するからだ。
これを物語による代償行為という。
ちなみに、これを弁証法で説明するやり方もある。
テーゼ(主人公)とアンチテーゼ(敵)が止揚(アウフヘーベン)し、
第三の価値、ジンテーゼを生む、と説明する。
どちらにせよ同じことを言っている。
自分は、
別世界にある危機を目の前にして、
一端「かつての自分でないもの」にならなければ事態は解決出来ない。
(それはさなぎの中で、一端イモ虫が完全に液体になってしまうことと同じだ)
そうして生まれた新たな自分が、旧来のダメな自分と最後には統合される。
よく出来た物語には、必ずこれがある。
感情移入とは、代償行為と表裏一体なのである。
だからこそ、主人公と感情や痛みや喜びを、共有できるのである。
サブプロットがどのように配置されなければならないかもここから逆算できる。
サブプロットは、本題の脇の問題としてふさわしいかどうかで意義を問われるべきだ。
テーマが内気の克服なら、強気やニセの強がりや自信がサブプロットの候補になるべきだ。
我々脚本家は、新しい自我の危機、新しい克服の仕方、
すなわち新しい物語を書いてそれを示さねばならない。
ちなみに、あなただけが感情移入出来、
あなただけがカタルシスを得る物語を書けたとしても商売的には意味がないが、
あなた自身には意味があるかも知れない。
物語を書く行為は、それだけで代償行為になるからだ。
振られた痛みを恋の名曲に仕上げる例は枚挙に暇がないだろう。
それが、同時代的に共有できるものなら、それは商売的にヒットする可能性がある。
ならないなら、それはオナニーと呼ばれる。
「目利き」とは、それを見分ける力のことだと思う。
主人公は、自分の存在価値を問われるか?
自分の価値に疑問を生じるか?
自分の意味について悩むか?
そしてそれを、その問題とは直接関係ない別世界で最終的に克服し、
日常世界に帰還後、冒険の経験から新たな自分に統合されるか?
そして、そのアイデンティティークライシスは、
そもそも観客にとっても同じように危機感をもって共有されるものになるか?
それが全て出来ていれば、それは、感情移入に値する映画であると思う。
(またまた言うまでもなくガッチャマンであるが、
ケンは悩んでいた? 何に? 闘いたくないけど闘うことに?
そこから別世界で冒険した? 何かを克服した?
彼の「冒険」は唯一南部博士の命令無視、というワンアクションにしかすぎなかった。
これが新たなケンの姿? そしてそれは、何か興味をもてる話だったか?)
映画の冒頭部、ファーストロールでは、主人公の日常と共に問題点を描いておけ、と言われる。
事件がはじまってから彼の問題点を出しても、まどろっこしいからだ。
焦点がぼやける。問題点→事件→アイデンティティークライシス、が正しい順番だろう。
ファーストロールを書くのが、いかに難しいか分かるだろう。
しかも事件を起こして、そのおちいった状況に興味を持たせなければならないのだ。
そこまで最短8分、最長でも15分と言われる。
原稿用紙8から15枚以内で、脚本家はこれをしなければならないのだ。
映画は短篇である、という僕の主張もさもありなん。
ごく短く、キレのあるエピソードの創作が、求められる。
象徴的な絵にすると、言葉でいちいち説明しなくて済む。
上手い映画は、絵の使い方が上手い。
今の日本映画は、絵で語る、つまり美しい写真ではなく、
物語の要素を絵で象徴する力(なおかつ美しい絵)が足りないと思う。
2013年09月20日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック