2013年09月19日

「ドラマとは葛藤である」は誤訳である

「ドラマとは葛藤である」は、脚本の教科書ではまず最初に教えられることのひとつだ。
コンフリクトconflictを辞書通り葛藤と訳したのだろう。
これは誤訳である。
「ドラマとはコンフリクトである」のコンフリクトは、
対立、衝突(アメリカ的)、確執、因縁(日本的)と
文脈に応じて訳し分けるのが正しい。conflictにはそのような意味が内臓されている。
一方、日本語の葛藤には、
「心の中で二者または三者以上のことで悩むこと」のニュアンスが強い。
コンフリクトを葛藤と教えられると、「そうか、悩むことかがドラマなんだ」と思って、
主人公が悩む場面ばかり書いてしまう。
これは誤りである。詰まらない日本映画は主人公が一人で悩んでばかりだ。

コンフリクトは、一人の中ではなく、
一人と他の一人、即ち「他者」との間で描かれるべきだ。
何故なら、映画とは、三人称文学だからである。

三人称視点では、人の内面はわからない。
分からせる方法は、その人が他人に言うか、
行動で表すしかない。

行動で表すことの出来る感情や意志は、極めて単純で原始的だ。
優しく抱き締めれば愛してる、激しく殴るなら怒ってる、
逃げるならびびってる、泣くなら悲しい、帰るのは拒否、
悲しむ相手の横に座ってあげるのは慰めている、などだ。
文脈を加えればそこにニュアンスを足せるが、
言葉を伴わない行動は、単純で原始的である。
だからこそ強い。
ここぞというときに無言の行動を見せる主人公の場面は、
強い内面の表明である。
ハリウッドの格言に、「最良の台詞とは、無言である」がある。
これは「男は黙って行動」という意味と等しい。

「何を言うかではなく、何をするかでその人が分かる」ともいう。
べらべら喋るのは誰でも出来る。嘘も言える。
だから言葉は時に信用出来ない。行動こそ嘘偽りないその人の真実である。
正義の行動ばかりでなく、浮気しておいて言い訳する例を考えればわかる。
言葉は嘘をつける。真実は浮気という行動のほうだ。

だから映画では、行動する場面はとても強く、
その人の真の内面、意志、感情を表現することができる。
物語とは動きである、という僕の主張は、このことを意味している。
主人公の行動を背骨にしたプロット表を提案したのも、
これに基づいたアイデアだ。


一方、もう少し複雑な内面や、事情や、感情は、行動だけでは表現出来ない。
一人称小説では、むしろここがハイライトだ。
統計をとっていないが、文字数の8割を割いてもOKだろう。
(余談だが、だから小説の映画化は失敗する。残り2割が出来のいい小説を探さなきゃいけないから)
三人称文学では、ナレーションやタイトルなどの飛び道具をのぞいては、
台詞で表現するしかない。

独り言を言うのは舞台ではありえる(この意味で舞台は映画と小説の中間である)が、
より「現実」を話の舞台にしている映画では、
台詞とは、他人に向けて言うものだ。
(独り言を延々言う人は、現実では普通ではない)

何かを他人に言えば必ず反発がある。
これがコンフリクトである。
「私は悲しい」と言ったとしても、「私はそうではない」と返される。
両者の違いを会話なり行動なりで確認してゆき、
二人が納得する状態になるか、喧嘩分かれするかまで会話を続ける。
これがシーンである。
「お金を貸して」「はいどうぞ」はコンフリクトではない。
「お金を貸して」「今ないんだよ」「そんなこと言わず」がコンフリクトだ。
「悲しい」「よしよし」はコンフリクトではない。
「悲しい」「今言うなよ」「悲しくないの?」「うるせえ!」がコンフリクトだ。

昔子供のころ、映画では外人の夫婦はいつも喧嘩してると思ってた。
その直感は当たっていた。コンフリクトだったのだ。

コンフリクトは人間関係だ。
主人公と他者の人間関係だ。
一見固定した人間関係が、主人公の発言で揺らぐのだ。
その揺らぎで始まった波紋が、どう伝わり、どう人間関係が危うくなり、
抱えていた内面(や秘密)が炙り出され、
どう決着し、どう人間関係が変化するかが、物語である。
主人公に与えられた二つの手段は、台詞と行動である。


アメリカ的には、対立や衝突が人間関係の基本である。
敵(悪役)を必ずつくる。敵との対決がコンフリクトになるようにする。
主人公をテーゼ、敵をアンチテーゼと呼び、
彼らは互いに矛盾競合する関係にある。
どちらかがどちらかを倒すか、双方の主張以上に価値ある第三の結論にたどり着くまで、
物語は決着しない。
相互に矛盾する主張が、別の軸の結論へ昇華するさまを、
弁証法的に止揚(アウフヘーベン)と説明する理論書もあるくらいだ。
二分論ベースの西洋的文学論では、
コンフリクトこそ物語の中心的エンジンである。

日本のドラマは、そこまで波風を立てない。
ヤクザ警察ものなど「分かりやすい」以外の普通のジャンルでの人間関係では、
確執や因縁や立場の違いが、感情的利害的対立や衝突の原因だ。

いずれにせよ、結果的に主人公と他者が対立する。
これを行動や台詞で、両者が満足するか、どちらかが生き残るまで、
人間関係を変える必要がある。
これが物語である。

物語とは、主人公と他者の間にいるのだ。


主人公がウジウジ一人で悩むのは映画ではない。
その悩みを他人に話し、否定されなければ、物語ははじまってもいないのだ。

CG版キャプテンハーロック、実写ガッチャマンは、
物語の入口に立ってすらいない。
劇場版タイムスクープハンターは、主人公以外に物語性が濃厚だった。
パシフィックリムは、第二ターニングポイントまでは主人公の物語だったが、
第二ターニングポイントから司令官と博士達の物語に変質してしまった。

コンフリクトを、心の葛藤と思うな。
脚本では、自分を書くなと戒めた。
弱い自分が、他人と関わるのも怖いし責任取るのも出来ないし、
行動はリスキーだし、でも悩みは高尚だから自分は偉いし、
そんな凄い自分がスーパーパワーやラッキーで物事を解決する話がまかりとおる
(ガッチャマンは石、ハーロックはダークマター)のは、
「ドラマとは葛藤(心の中の悩み)である」という誤訳がいけない。

「ドラマとはコンフリクトである」
「ドラマとは他人との対立、衝突、確執、因縁、立場、心情の違いで生まれ、
人間関係が危うくなって、行動と台詞で動き、最初とは別の人間関係に至ること」
と考えることが、面白い三人称形式の物語を産むだろう。
(9/1919:00ちょっと改訂)
posted by おおおかとしひこ at 19:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック