「ドラマとは葛藤である」は、脚本の教科書ではまず最初に教えられることのひとつだ。
コンフリクトconflictを辞書通り葛藤と訳したのだろう。
これは誤訳である。
「ドラマとはコンフリクトである」のコンフリクトは、
対立、衝突(アメリカ的)、確執、因縁(日本的)と
文脈に応じて訳し分けるのが正しい。conflictにはそのような意味が内臓されている。
一方、日本語の葛藤には、
「心の中で二者または三者以上のことで悩むこと」のニュアンスが強い。
コンフリクトを葛藤と教えられると、「そうか、悩むことかがドラマなんだ」と思って、
主人公が悩む場面ばかり書いてしまう。
これは誤りである。詰まらない日本映画は主人公が一人で悩んでばかりだ。
コンフリクトは、一人の中ではなく、
一人と他の一人、即ち「他者」との間で描かれるべきだ。
何故なら、映画とは、三人称文学だからである。
三人称視点では、人の内面はわからない。
分からせる方法は、その人が他人に言うか、
行動で表すしかない。
行動で表すことの出来る感情や意志は、極めて単純で原始的だ。
優しく抱き締めれば愛してる、激しく殴るなら怒ってる、
逃げるならびびってる、泣くなら悲しい、帰るのは拒否、
悲しむ相手の横に座ってあげるのは慰めている、などだ。
文脈を加えればそこにニュアンスを足せるが、
言葉を伴わない行動は、単純で原始的である。
だからこそ強い。
ここぞというときに無言の行動を見せる主人公の場面は、
強い内面の表明である。
ハリウッドの格言に、「最良の台詞とは、無言である」がある。
これは「男は黙って行動」という意味と等しい。
「何を言うかではなく、何をするかでその人が分かる」ともいう。
べらべら喋るのは誰でも出来る。嘘も言える。
だから言葉は時に信用出来ない。行動こそ嘘偽りないその人の真実である。
正義の行動ばかりでなく、浮気しておいて言い訳する例を考えればわかる。
言葉は嘘をつける。真実は浮気という行動のほうだ。
だから映画では、行動する場面はとても強く、
その人の真の内面、意志、感情を表現することができる。
物語とは動きである、という僕の主張は、このことを意味している。
主人公の行動を背骨にしたプロット表を提案したのも、
これに基づいたアイデアだ。
一方、もう少し複雑な内面や、事情や、感情は、行動だけでは表現出来ない。
一人称小説では、むしろここがハイライトだ。
統計をとっていないが、文字数の8割を割いてもOKだろう。
(余談だが、だから小説の映画化は失敗する。残り2割が出来のいい小説を探さなきゃいけないから)
三人称文学では、ナレーションやタイトルなどの飛び道具をのぞいては、
台詞で表現するしかない。
独り言を言うのは舞台ではありえる(この意味で舞台は映画と小説の中間である)が、
より「現実」を話の舞台にしている映画では、
台詞とは、他人に向けて言うものだ。
(独り言を延々言う人は、現実では普通ではない)
何かを他人に言えば必ず反発がある。
これがコンフリクトである。
「私は悲しい」と言ったとしても、「私はそうではない」と返される。
両者の違いを会話なり行動なりで確認してゆき、
二人が納得する状態になるか、喧嘩分かれするかまで会話を続ける。
これがシーンである。
「お金を貸して」「はいどうぞ」はコンフリクトではない。
「お金を貸して」「今ないんだよ」「そんなこと言わず」がコンフリクトだ。
「悲しい」「よしよし」はコンフリクトではない。
「悲しい」「今言うなよ」「悲しくないの?」「うるせえ!」がコンフリクトだ。
昔子供のころ、映画では外人の夫婦はいつも喧嘩してると思ってた。
その直感は当たっていた。コンフリクトだったのだ。
コンフリクトは人間関係だ。
主人公と他者の人間関係だ。
一見固定した人間関係が、主人公の発言で揺らぐのだ。
その揺らぎで始まった波紋が、どう伝わり、どう人間関係が危うくなり、
抱えていた内面(や秘密)が炙り出され、
どう決着し、どう人間関係が変化するかが、物語である。
主人公に与えられた二つの手段は、台詞と行動である。
アメリカ的には、対立や衝突が人間関係の基本である。
敵(悪役)を必ずつくる。敵との対決がコンフリクトになるようにする。
主人公をテーゼ、敵をアンチテーゼと呼び、
彼らは互いに矛盾競合する関係にある。
どちらかがどちらかを倒すか、双方の主張以上に価値ある第三の結論にたどり着くまで、
物語は決着しない。
相互に矛盾する主張が、別の軸の結論へ昇華するさまを、
弁証法的に止揚(アウフヘーベン)と説明する理論書もあるくらいだ。
二分論ベースの西洋的文学論では、
コンフリクトこそ物語の中心的エンジンである。
日本のドラマは、そこまで波風を立てない。
ヤクザ警察ものなど「分かりやすい」以外の普通のジャンルでの人間関係では、
確執や因縁や立場の違いが、感情的利害的対立や衝突の原因だ。
いずれにせよ、結果的に主人公と他者が対立する。
これを行動や台詞で、両者が満足するか、どちらかが生き残るまで、
人間関係を変える必要がある。
これが物語である。
物語とは、主人公と他者の間にいるのだ。
主人公がウジウジ一人で悩むのは映画ではない。
その悩みを他人に話し、否定されなければ、物語ははじまってもいないのだ。
CG版キャプテンハーロック、実写ガッチャマンは、
物語の入口に立ってすらいない。
劇場版タイムスクープハンターは、主人公以外に物語性が濃厚だった。
パシフィックリムは、第二ターニングポイントまでは主人公の物語だったが、
第二ターニングポイントから司令官と博士達の物語に変質してしまった。
コンフリクトを、心の葛藤と思うな。
脚本では、自分を書くなと戒めた。
弱い自分が、他人と関わるのも怖いし責任取るのも出来ないし、
行動はリスキーだし、でも悩みは高尚だから自分は偉いし、
そんな凄い自分がスーパーパワーやラッキーで物事を解決する話がまかりとおる
(ガッチャマンは石、ハーロックはダークマター)のは、
「ドラマとは葛藤(心の中の悩み)である」という誤訳がいけない。
「ドラマとはコンフリクトである」
「ドラマとは他人との対立、衝突、確執、因縁、立場、心情の違いで生まれ、
人間関係が危うくなって、行動と台詞で動き、最初とは別の人間関係に至ること」
と考えることが、面白い三人称形式の物語を産むだろう。
(9/1919:00ちょっと改訂)
2013年09月19日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック