2013年10月01日

イコンの重要性

日本映画は、絵づくりが下手だと思う。
ここでいう絵づくりは、写真的美しさや、外人のほうがやっぱカッコイイとか、
デザイン上の美しさのことではない。

物語を一枚絵で象徴する、ということを言う。

「アーティスト」を例にとろう。
今まで無声映画でスターだった主人公が、トーキーの勃興とともに落ちぶれてゆく。
新人だった彼女はスターゆえ彼に惚れていたが、トーキー専門ニュースターになって上り調子である。
彼女は忙しく、彼は暇だ。

この二人が、撮影所の階段ですれちがう。
主人公は下り階段を下って来て。新人の彼女は階段を上って来て。
二人の立場を、言葉による説明ではなく、画で象徴している場面である。
二人は会話をするが、その内容よりも画の方が二人をより語っている。
その画が二人のこの先をも象徴している。(実際そうなる)

この場面は実際にある階段ではなく、セットでつくったと思われる。
正面からあそこまで引きで撮れるような実在の階段はなさそうだからだ。
引きで撮れるように、わざわざつくったのだ。あの画をつくるために。

日本映画では、おそらくここまではやらない。
コストの問題がまずある。
十分な資金の余裕があったとしても、ここまで美術費にはふらず、
CGや無駄に出演者を豪華にすることにまわしがちだ。

つまり、絵づくりをしようとしていない。

絵とは、イケメンや美女や豪華セットや素晴らしいロケーションのことではなく、
「物語を一枚絵で象徴する」ことである。
人物の立ち位置と空間で、二人の立場を象徴する、以外にも色々な方法があるだろう。

物語の中心テーマをうまく一枚絵にすると、
それは物語のイコンになる。
そのイコンがあれば、それは優秀なポスターになる。
その一枚絵で、どんなコンフリクトがあるのか、が描かれていると、
魅力ある物語に見える、優秀なポスターになる。

「アーティスト」のポスターは、この階段の引き画にするべきだったと思う。
出演者が二人でカメラ目線でアピールしていた、実際に使われたメインビジュアルからは、
物語が想像できない。
主たる葛藤、対立、因縁、衝突が見えてこない。
階段の引き画で、二人がすれ違う。男は落ち目で、女は上り調子で。
この絵ならば物語を想像できたはずだ。


良く出来た物語のイコンは、「ジョーズ」のポスターである。
海面で美女が泳いでいて、その下に巨大鮫が口を開いている。
それはこの物語のメインコンフリクト、巨大鮫vs人間を描き、なおかつ美しい。
勿論これは本編にはない画だ。
スピルバーグは、象徴する画作りのあまりうまくない監督の一人である。
物語を象徴する絵をつくった、ポスターデザイナーの勝利だ。
(逆にこのポスターのせいで、主人公は誰か、彼らの物語は何か、は全く注意がはらわれない。
脚本家からしたら、何も描けていないポスターだというかも知れないけど)


あなたの映画脚本は、イコンになるような絵を想定して書いているだろうか。
ポスターを想定して書いているだろうか。
それは、自分の物語のメインコンフリクトを、どのようにとらえているかを考えることだ。
それがオリジナリティがあり、力強く、面白そうなら、
それはよい脚本で、よいポスターになるだろう。


メインコンフリクト以外にも、いくつかの場面がイコンになる例もある。
「ロッキー」なら生卵を飲んで朝走る場面、「燃えよドラゴン」なら黄色いスーツで戦う場面だ。
それはたいてい名場面と呼ばれる。
名場面は、絵によるストーリーの象徴が上手くいった場面のことである。
どんなに感情を刺激され、綿密にプロットが組まれ、いい芝居があり、人生をうまく語れたとしても、
画でストーリーを象徴出来ていなければ、それは「名場面」とは言われない。

前に書いたように、名場面を書くのは脚本の目的ではない。
名場面になるようなコンフリクトを創作するのが脚本の仕事だ。
結果的にそれがイコンになるのは、監督他スタッフの力量でもある。
ただの良いシャシンはイコンにはならない。
ストーリーを表す写真がイコンになる。
脚本家は、イコンになるような強い対立や気持ちを、つくっていくのである。


「アイアンマン3」のキスシーンは、イコンとなる名場面にふさわしい文脈だった。
スーツをつくることに依存していた主人公が、守るべき彼女の前で、
その50体近くのスーツを空中で自爆させる。
それが花火のようになり、それに囲まれてキスをする。
自分の過去を断ち切り、新たな自分へと生まれ変わる祝福の場面だ。
これが、監督のせいで名場面にならなかった。

普通この文脈なら、
自爆するスーツの花火のヨリ→二人のキス→カメラ引く→キスする二人、そのバックに花火
とするのが、この名場面を一枚絵に収めるやり方である。
ところがこの場面、そのように撮られていなかった。
キスする二人と、爆発する空中のスーツ達の空撮がモンタージュされただけであった。
CGと人物を別撮りしたのである。合成や撮影スケジュールの都合もあったのだろうが、
この「結末」は一枚絵のイコンにするべきだった。
「アーティスト」の階段の場面のような、一枚絵になるべきだった。


このような事故はあるものの、脚本は、イコンになるように、書くのがよい。
それには頭の中で、「ストーリーの構図」を、「絵の構図」にしてみるとよい。
それが面白そうになるなら、そのコンフリクトはおそらくイコンになる資格がある。



僕は専門は写真ではないが、僕がいい写真だと思う基準は、
ストーリーの想像できる写真である。
写っているものの関係性を想像したり、
どうしてこうなったのか、その以前のストーリーを想像出来たり、
その後のことを想像したりできるもののことだ。
イコンになる画には、必ずこのような要素があると思う。

日本のダメ映画を見分ける方法を教えてあげよう。
人気俳優が並んでカメラ目線になっているポスターは、必ずダメ映画である。
人気俳優の正面コスプレ写真でしかなく、
そこにストーリーを忍ばせる余地がないからだ。
ストーリーとは、コンフリクトや、その前後のことである。
メインビジュアルがタレント集合写真であるということは、
それがないか、ないがしろにされている、ということの暗示である。

絵づくり、ということは、物語づくりの基礎なのだから。

(絵のないメディア、小説やラジオドラマですら、絵を想像させること、としている。
視覚障害者用の文学などはどうか、と気になるところだが、そこまでは僕は詳しくない)
posted by おおおかとしひこ at 14:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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