2013年09月25日

「成長」はどういう形をしているか

物語では必ず必要と言われる主人公の成長。
これは、どのような形をしているのか。
身長がのびるように、木が育つように、「そのままの形が相似形で大きくなる」と
イメージするのは誤りだ。
つっかえ棒で成長が阻害されていて、それをのければ、
抑えつけられていた部分がのびはじめるような、
「足りない所がのびて、本来のあるべき形を取り戻す」と
イメージするのも誤りだ。

物語で描かれる成長とは、そのようなものではない。

僕は、「まるで違う人間にメタモルフォーゼすること」が正しいと思っている。

感情移入論で、精神治療のことについて述べた。
芋虫は、さなぎの殻の中で一度液体になる(さなぎを割ったことはないが、
割ったらどろどろの液体で満たされている筈)。
液体の中から芋虫とは全く違う構造をもった、蝶という体を再構成するのだ。

冒険の末の成長、というのはこれをイメージするべきである。

人間の心は機械ではない。
ある部分に担当機能があり、それが大きくなったり、縮小したりすれば、
その機能スペックが大小するようなものではない。
脳に欠損があった場合、残りの神経ネットワークを再構築して、
失われた機能を(ある程度)補填する機能が体にはある。
脳(心)の中は、代替、再変更が可能なのだ。

欠点の克服、という成長パターンを例にとろう。
欠点という弱点が、手術のように取り除かれるのが成長だろうか。
あるいは、欠点と呼ばれる部分に自信を注ぎ、
本来ある「欠点をのりこえる自信」という正しい形にするのが成長だろうか。
欠点を克服した経験を持つ人は、そのような経験だっただろうか。
違うと思う。
欠点の克服は、そのようなパーツの取り換えではなく、
全個人的体験であった筈だ。
自分の全部を使って、なおうまく行かないことが、
何かをきっかけに、全個人をすべて塗りかえる、脱皮のような効果が成長にはあった筈だ。

小さな例で考えると分る。

僕は小学生のころ、逆上がりが出来なかった。
心配した両親が、日曜日学校に連れてって特訓してくれたのが嫌だった。
蹴りあげる足のスピードやタイミングや、ひきつける握力や肘のタイミング、
そのときの自分の思いつく限りの方法でトライしたが、なお出来ず、
自信喪失で泣いたりもした。僕個人の全てが、その欠点を意味していた。

ところがだ。
「腹を先にのっけるようにする」というコツに気づいたら一発で出来た。偶然だった。
蹴りあげる足や引きつける手は、これで何の関係もなくなったのだ。
新しい「腹」が生まれた。これに、手や足という従来の俺を再調整していけばいいのだ。
「腹」を中心に、僕の全てが生まれ変わる。
従来の足や手という自分の中からは導き出せなかった「新しい概念」が、
それを中心に、自分の全てを書き替えたのである。

成長というのはそのようなものだ。
ただ手足の力やスピードのスペックがあがる、「樹木型成長」ではない。
腹が阻害されていて、その阻害要因を取り除けば腹が成長をはじめ、手足と統合される、
「阻害成長型」でもない。
腹という新しい概念で、従来の自己をいっぺん全部溶かしてしまい、
新たな自分へと一から再構成しなおす、「メタモルフォーゼ型」が、
ほんとうの成長なのではないだろうか。

失恋は何故辛いのか。
それは、全個人的体験だからだ。
欠点を直したりすれば立ち直れる訳ではない。欠点すら恋の前では魅力になる。
失恋の立ち直りはたいてい新しい恋を見つけることだが、
これは欠点を治すという部分的なことではなく、
新しい恋を前に、自分を再構成するのだ。

「成長」は部分の数値目標ではない。
全個人的な、生まれ変わる行為である。

そして物語におけるカタルシスとは、そのようなものであるからこそ、
精神的カタルシス、すなわち昇華という行為になる。


日常、という普段親しんだ世界よりも、
「特別な世界での冒険」(スペシャルワールド)が、主人公を生まれ変わらせる。
「映画とは旅に似ている」と言われるのは、
旅という異世界での冒険が、自分を作り変えさせるからである。
それは、日常生活の延長ではなく、旅先、という特殊な世界でこそ行われるから意味がある。

僕の「逆上がり習得」という成長は、両親に日曜日も連れて行かされた特訓、
という非日常のスペシャルワールドでのものだったのだ。
あれが、先生や友達相手の、休み時間や体育の時間という日常だったら、
腹を中心とする、という新しい概念は生まれなかったかも知れない。
嫌で泣いてたけど、両親に感謝。


映画における成長は、個人の問題点をあぶり出すことからはじめる。
異物との出会いで、別の世界での冒険が必要になる。
冒険の途中、自己の問題点や触れたくなかった部分に向き合う必要が出てくる。
ここは日常世界ではないから、普段では出来ないような大胆さが許される。
それは自分という既成概念を一端白紙に戻すような、自我をなくすような危険な行為だ。
しかしそれをしなくてはならないほど、危険や必要性が迫るのだ。
それは成功する。
成功に無理がないように、ハラハラするように組む。
日常に戻って来た主人公は、もう以前のような主人公ではない。
一端「液体」になり、生まれ変わったのである。
非日常の冒険が、彼を新たにしたのだ。

これが、成長というアーク(軌跡)である。


僕は女ではないので女世界のことは完璧には分らないが、
男の成長には、通過儀礼というものがある。
通過儀礼で必要なものは、村の「外」の危険な世界(つまりスペシャルワールド)での、
何かの獲得である。
(原始的部族の狩りだけではない。肝試しというより現実的な通過儀礼もある)
異世界では、村の中の小さな自分など関係ない。自我をなくしてでも生還しなければならない。
これをクリアすれば、村(日常世界)の中で、男になったと認められる。

つまり、映画における成長とは、「男になる」ということだ。

童貞の卒業が、それまでの自分を何もかも変えていったことを思い出そう。
比喩的に、そのようなことが成長に含まれていないと、それは物足りない成長物語になるだろう。
posted by おおおかとしひこ at 15:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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