物語では必ず必要と言われる主人公の成長。
これは、どのような形をしているのか。
身長がのびるように、木が育つように、「そのままの形が相似形で大きくなる」と
イメージするのは誤りだ。
つっかえ棒で成長が阻害されていて、それをのければ、
抑えつけられていた部分がのびはじめるような、
「足りない所がのびて、本来のあるべき形を取り戻す」と
イメージするのも誤りだ。
物語で描かれる成長とは、そのようなものではない。
僕は、「まるで違う人間にメタモルフォーゼすること」が正しいと思っている。
感情移入論で、精神治療のことについて述べた。
芋虫は、さなぎの殻の中で一度液体になる(さなぎを割ったことはないが、
割ったらどろどろの液体で満たされている筈)。
液体の中から芋虫とは全く違う構造をもった、蝶という体を再構成するのだ。
冒険の末の成長、というのはこれをイメージするべきである。
人間の心は機械ではない。
ある部分に担当機能があり、それが大きくなったり、縮小したりすれば、
その機能スペックが大小するようなものではない。
脳に欠損があった場合、残りの神経ネットワークを再構築して、
失われた機能を(ある程度)補填する機能が体にはある。
脳(心)の中は、代替、再変更が可能なのだ。
欠点の克服、という成長パターンを例にとろう。
欠点という弱点が、手術のように取り除かれるのが成長だろうか。
あるいは、欠点と呼ばれる部分に自信を注ぎ、
本来ある「欠点をのりこえる自信」という正しい形にするのが成長だろうか。
欠点を克服した経験を持つ人は、そのような経験だっただろうか。
違うと思う。
欠点の克服は、そのようなパーツの取り換えではなく、
全個人的体験であった筈だ。
自分の全部を使って、なおうまく行かないことが、
何かをきっかけに、全個人をすべて塗りかえる、脱皮のような効果が成長にはあった筈だ。
小さな例で考えると分る。
僕は小学生のころ、逆上がりが出来なかった。
心配した両親が、日曜日学校に連れてって特訓してくれたのが嫌だった。
蹴りあげる足のスピードやタイミングや、ひきつける握力や肘のタイミング、
そのときの自分の思いつく限りの方法でトライしたが、なお出来ず、
自信喪失で泣いたりもした。僕個人の全てが、その欠点を意味していた。
ところがだ。
「腹を先にのっけるようにする」というコツに気づいたら一発で出来た。偶然だった。
蹴りあげる足や引きつける手は、これで何の関係もなくなったのだ。
新しい「腹」が生まれた。これに、手や足という従来の俺を再調整していけばいいのだ。
「腹」を中心に、僕の全てが生まれ変わる。
従来の足や手という自分の中からは導き出せなかった「新しい概念」が、
それを中心に、自分の全てを書き替えたのである。
成長というのはそのようなものだ。
ただ手足の力やスピードのスペックがあがる、「樹木型成長」ではない。
腹が阻害されていて、その阻害要因を取り除けば腹が成長をはじめ、手足と統合される、
「阻害成長型」でもない。
腹という新しい概念で、従来の自己をいっぺん全部溶かしてしまい、
新たな自分へと一から再構成しなおす、「メタモルフォーゼ型」が、
ほんとうの成長なのではないだろうか。
失恋は何故辛いのか。
それは、全個人的体験だからだ。
欠点を直したりすれば立ち直れる訳ではない。欠点すら恋の前では魅力になる。
失恋の立ち直りはたいてい新しい恋を見つけることだが、
これは欠点を治すという部分的なことではなく、
新しい恋を前に、自分を再構成するのだ。
「成長」は部分の数値目標ではない。
全個人的な、生まれ変わる行為である。
そして物語におけるカタルシスとは、そのようなものであるからこそ、
精神的カタルシス、すなわち昇華という行為になる。
日常、という普段親しんだ世界よりも、
「特別な世界での冒険」(スペシャルワールド)が、主人公を生まれ変わらせる。
「映画とは旅に似ている」と言われるのは、
旅という異世界での冒険が、自分を作り変えさせるからである。
それは、日常生活の延長ではなく、旅先、という特殊な世界でこそ行われるから意味がある。
僕の「逆上がり習得」という成長は、両親に日曜日も連れて行かされた特訓、
という非日常のスペシャルワールドでのものだったのだ。
あれが、先生や友達相手の、休み時間や体育の時間という日常だったら、
腹を中心とする、という新しい概念は生まれなかったかも知れない。
嫌で泣いてたけど、両親に感謝。
映画における成長は、個人の問題点をあぶり出すことからはじめる。
異物との出会いで、別の世界での冒険が必要になる。
冒険の途中、自己の問題点や触れたくなかった部分に向き合う必要が出てくる。
ここは日常世界ではないから、普段では出来ないような大胆さが許される。
それは自分という既成概念を一端白紙に戻すような、自我をなくすような危険な行為だ。
しかしそれをしなくてはならないほど、危険や必要性が迫るのだ。
それは成功する。
成功に無理がないように、ハラハラするように組む。
日常に戻って来た主人公は、もう以前のような主人公ではない。
一端「液体」になり、生まれ変わったのである。
非日常の冒険が、彼を新たにしたのだ。
これが、成長というアーク(軌跡)である。
僕は女ではないので女世界のことは完璧には分らないが、
男の成長には、通過儀礼というものがある。
通過儀礼で必要なものは、村の「外」の危険な世界(つまりスペシャルワールド)での、
何かの獲得である。
(原始的部族の狩りだけではない。肝試しというより現実的な通過儀礼もある)
異世界では、村の中の小さな自分など関係ない。自我をなくしてでも生還しなければならない。
これをクリアすれば、村(日常世界)の中で、男になったと認められる。
つまり、映画における成長とは、「男になる」ということだ。
童貞の卒業が、それまでの自分を何もかも変えていったことを思い出そう。
比喩的に、そのようなことが成長に含まれていないと、それは物足りない成長物語になるだろう。
2013年09月25日
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