僕ぐらい古い世代(80年代初期のローディストとか)では、ヤオイと言えばこのことで、
(今のBLと同義の801ではない)二次創作のこと、しかもダメな二次創作を自虐的に言う言葉だった。
山、落ち、意味、この三つがないことをヤオイと言ったのである。
とあるアニメなどの、世界の人物や世界を借りて、何かの掌編を創作するのを二次創作というのだろうが、
創作とは、山も落ちも意味もあるようにつくらなければならない、という暗黙の了解が、
たいしたことのない掌編をヤオイと自虐させたのである。
魅力的な人物や世界を借りているのにも関わらず、ヤオイになってしまうのには、
物語の創作に潜む秘密に、向き合う必要がある。
ここの脚本論では、
静止画的なこと(画面のデザインや設定、初期人間関係などの、静止的要素)と、
動き(人物の動機、行動、成功失敗などの結果、成長、変化などの動的要素)を区別している。
物語の創作の初心者は、静止画的なことで満足しがちであることも、くりかえし警鐘をならしている。
二次創作は、設定を借りるのだから、
あとは動的要素をつくれば物語になるはずだ。
にも関わらず、二次創作で最も多いパターンはSSである。
しかもそのSSは、本編の途中と思われる一夜とか、ちょっとしたひとときとか、
そこでの誰かと誰かのいちゃいちゃや、
思いのようなものを一人称でつづる(誰かが寝てる間にその思いを語るパターンの多いこと)、
エッセイ的なものだ。
思いや、いちゃいちゃは、静止画的要素である。
そこからの動的変化や動的変化のはじまりではなく、現状維持や現状確認という、
変化しない要素である。
「アイドルとの暮らし」が「動き」にならず、動的物語にならなかった例を思い出してほしい。
だから、ヤオイになるのである。
山とは、動機ではじまった物語が、それをなしえるかどうかの成否を決定する、一番緊張する大事な場面だ。
落ちとは、それがどのような結果となったかという満足感のことだ(笑いでなくとも構わない)。
意味とは、その冒険と結果がどのように主人公に意味をなしたか(主人公の成長)、
それが我々受け手の人生にどのような影響をもたらすか、ということだ。
静止画的要素をつらつらと書くだけでは、このどれもが要素の外にある。
SSは何故小説が多いのか。
小説は一人称であり、Doよりwasを書くことの方が得意だからだ。
なにをしたかという動きの軌跡、動機、ターニングポイントを書くより、
地の文で思いや設定を書くほうが楽だからだ。
二次創作マンガは、少女マンガっぽい形式が多い。
少女マンガの特色のひとつは、主人公の心のセリフの多さである。
(吹き出しに入れない文字だけを空白で乗せるナレーションや、四角吹き出しで別フォントで乗せるパターン)
これは心の声を原則使わない映画脚本や三人称文学(少年漫画)より、
一人称文学の小説形式により近い。
これらの形式を使う限り、
より楽なのは、「思いをつづる」「○○の知らない事をただ言う」などの、
静止画的要素を書くことである。
動的要素、つまり事件があって、動機が生まれ、行動し、それがコンフリクトを生み、
ターニングポイントで焦点の方向が変わり、主人公が液体になるほどの自我を左右する出来事が起こり、
山場ではその成長が生かされ、元の日常へ戻る頃には別の自分になっていて、
この冒険が感情移入している受け手にとって、なんらかの意味を持つ、
ということを書くのは、ひとことで言うとしんどいのだ。
ファン的に、世界を遊んで楽しむ、という目的の二次創作に文句を言うつもりはない。
どうぞ遊んでください。好きなことを語るのはとても楽しいものだ。
だが、もし物語のプロを目指すのなら、二次創作に甘えている場合でない。
動的要素を創作したり、それをさばいたりする苦しさを、
一人称形式や思いを語る形式が、楽なる方向へ誘導する。
独自の人物や背景や関係を構築し、新たな世界を創生する苦しみを、
借り物から持ってくる楽さが、深く考えずに創作する癖をつくってしまう。
これは、原作つきの映画化やドラマ化を見れば明らかだ。
原作つきだから、人物や世界を創作せずに、
ストーリーだけを創作していればよい、という安易な気持ちをつくらせる。
初手から楽しようと思っているから、
楽な話しかつくらない。
つまり、アレンジこそが創作だと思ってしまう。
人物や世界を、ちょこっとアレンジしただけで、
あとは同程度に楽して書いたオリジナル話を足せば、それで何かをつくってしまった気になる。
今回のガッチャマンがその典型だ。
ゼロから作り直す気がないものは、所詮楽してつくったものだ。
深い考えがない話は、浅い話と同義である。
原作つきこそ、原作者より深い思考にもぐり、この原作の一番の魂はどこか、
それを別の形式に転写する意味はなにか、について考えなければ、
少なくとも原作に比肩するものはつくれない。
原作以下しか出来ないだろう。
原作以上のヒット、が映画産業に課せられているはずなのに、
原作以下のレベルの物語しか出来ないのは、
楽してつくっているからである。
それは、物語創作の初心者のレベルだ、ということだ。
静止画的要素は、物語の創作の表面的、化粧的な初歩でしかない。
動的要素が物語の本質だ。それは動機、行動、ターニングポイント、結果、テーマ、成長のことだ。
静止画的要素を描くだけで満足し、動的要素がうまく出来てないものを、
80年代初頭には、ヤオイと言ったのである。
今これを指す言葉は、現代にはない。出来てない物語、としか言いようがない。
絵とか、音とか、CGとか、デザインとか、画質とか、芝居がどれだけ進歩しても、
物語が進歩しない限り、空洞化は進む。
ガッチャマンも、ハーロックも、マンオブスティールも、みんなみんな安易な脚本だ。
僕の世代の言葉で言う、ヤオイ脚本だ。
創作の苦しみをなにひとつ味わっていない脚本家の、ファンが楽しむレベルの内輪の二次創作だ。
知らない人をも巻き込むレベルの、プロのレベルに達していない。
静止画的なことは、誰でも見ればわかる。
動的なことは、頭の中で再構成が難しい。動き論でそれは詳しく書いた。
見れば分ることだけをやっているから、このていたらくなのだ。
ファンの二次創作は、「この世界がずっと続いて欲しい」という願望から出発したものであるから、
動的要素、つまり変化と、最も遠い真逆のベクトルであることが多い。
山無し落ち無し意味無しは、動的要素から逃げて、
静止画的要素を永遠に書き続けることと同じなのである。
2013年09月30日
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