2013年09月30日

「山無し、落ち無し、意味無し」に潜む秘密

僕ぐらい古い世代(80年代初期のローディストとか)では、ヤオイと言えばこのことで、
(今のBLと同義の801ではない)二次創作のこと、しかもダメな二次創作を自虐的に言う言葉だった。
山、落ち、意味、この三つがないことをヤオイと言ったのである。

とあるアニメなどの、世界の人物や世界を借りて、何かの掌編を創作するのを二次創作というのだろうが、
創作とは、山も落ちも意味もあるようにつくらなければならない、という暗黙の了解が、
たいしたことのない掌編をヤオイと自虐させたのである。

魅力的な人物や世界を借りているのにも関わらず、ヤオイになってしまうのには、
物語の創作に潜む秘密に、向き合う必要がある。

ここの脚本論では、
静止画的なこと(画面のデザインや設定、初期人間関係などの、静止的要素)と、
動き(人物の動機、行動、成功失敗などの結果、成長、変化などの動的要素)を区別している。
物語の創作の初心者は、静止画的なことで満足しがちであることも、くりかえし警鐘をならしている。

二次創作は、設定を借りるのだから、
あとは動的要素をつくれば物語になるはずだ。
にも関わらず、二次創作で最も多いパターンはSSである。
しかもそのSSは、本編の途中と思われる一夜とか、ちょっとしたひとときとか、
そこでの誰かと誰かのいちゃいちゃや、
思いのようなものを一人称でつづる(誰かが寝てる間にその思いを語るパターンの多いこと)、
エッセイ的なものだ。

思いや、いちゃいちゃは、静止画的要素である。
そこからの動的変化や動的変化のはじまりではなく、現状維持や現状確認という、
変化しない要素である。
「アイドルとの暮らし」が「動き」にならず、動的物語にならなかった例を思い出してほしい。

だから、ヤオイになるのである。
山とは、動機ではじまった物語が、それをなしえるかどうかの成否を決定する、一番緊張する大事な場面だ。
落ちとは、それがどのような結果となったかという満足感のことだ(笑いでなくとも構わない)。
意味とは、その冒険と結果がどのように主人公に意味をなしたか(主人公の成長)、
それが我々受け手の人生にどのような影響をもたらすか、ということだ。

静止画的要素をつらつらと書くだけでは、このどれもが要素の外にある。

SSは何故小説が多いのか。
小説は一人称であり、Doよりwasを書くことの方が得意だからだ。
なにをしたかという動きの軌跡、動機、ターニングポイントを書くより、
地の文で思いや設定を書くほうが楽だからだ。

二次創作マンガは、少女マンガっぽい形式が多い。
少女マンガの特色のひとつは、主人公の心のセリフの多さである。
(吹き出しに入れない文字だけを空白で乗せるナレーションや、四角吹き出しで別フォントで乗せるパターン)
これは心の声を原則使わない映画脚本や三人称文学(少年漫画)より、
一人称文学の小説形式により近い。

これらの形式を使う限り、
より楽なのは、「思いをつづる」「○○の知らない事をただ言う」などの、
静止画的要素を書くことである。

動的要素、つまり事件があって、動機が生まれ、行動し、それがコンフリクトを生み、
ターニングポイントで焦点の方向が変わり、主人公が液体になるほどの自我を左右する出来事が起こり、
山場ではその成長が生かされ、元の日常へ戻る頃には別の自分になっていて、
この冒険が感情移入している受け手にとって、なんらかの意味を持つ、
ということを書くのは、ひとことで言うとしんどいのだ。


ファン的に、世界を遊んで楽しむ、という目的の二次創作に文句を言うつもりはない。
どうぞ遊んでください。好きなことを語るのはとても楽しいものだ。

だが、もし物語のプロを目指すのなら、二次創作に甘えている場合でない。


動的要素を創作したり、それをさばいたりする苦しさを、
一人称形式や思いを語る形式が、楽なる方向へ誘導する。
独自の人物や背景や関係を構築し、新たな世界を創生する苦しみを、
借り物から持ってくる楽さが、深く考えずに創作する癖をつくってしまう。

これは、原作つきの映画化やドラマ化を見れば明らかだ。
原作つきだから、人物や世界を創作せずに、
ストーリーだけを創作していればよい、という安易な気持ちをつくらせる。
初手から楽しようと思っているから、
楽な話しかつくらない。
つまり、アレンジこそが創作だと思ってしまう。
人物や世界を、ちょこっとアレンジしただけで、
あとは同程度に楽して書いたオリジナル話を足せば、それで何かをつくってしまった気になる。
今回のガッチャマンがその典型だ。
ゼロから作り直す気がないものは、所詮楽してつくったものだ。
深い考えがない話は、浅い話と同義である。

原作つきこそ、原作者より深い思考にもぐり、この原作の一番の魂はどこか、
それを別の形式に転写する意味はなにか、について考えなければ、
少なくとも原作に比肩するものはつくれない。
原作以下しか出来ないだろう。
原作以上のヒット、が映画産業に課せられているはずなのに、
原作以下のレベルの物語しか出来ないのは、
楽してつくっているからである。

それは、物語創作の初心者のレベルだ、ということだ。


静止画的要素は、物語の創作の表面的、化粧的な初歩でしかない。
動的要素が物語の本質だ。それは動機、行動、ターニングポイント、結果、テーマ、成長のことだ。

静止画的要素を描くだけで満足し、動的要素がうまく出来てないものを、
80年代初頭には、ヤオイと言ったのである。

今これを指す言葉は、現代にはない。出来てない物語、としか言いようがない。
絵とか、音とか、CGとか、デザインとか、画質とか、芝居がどれだけ進歩しても、
物語が進歩しない限り、空洞化は進む。

ガッチャマンも、ハーロックも、マンオブスティールも、みんなみんな安易な脚本だ。
僕の世代の言葉で言う、ヤオイ脚本だ。
創作の苦しみをなにひとつ味わっていない脚本家の、ファンが楽しむレベルの内輪の二次創作だ。
知らない人をも巻き込むレベルの、プロのレベルに達していない。

静止画的なことは、誰でも見ればわかる。
動的なことは、頭の中で再構成が難しい。動き論でそれは詳しく書いた。
見れば分ることだけをやっているから、このていたらくなのだ。

ファンの二次創作は、「この世界がずっと続いて欲しい」という願望から出発したものであるから、
動的要素、つまり変化と、最も遠い真逆のベクトルであることが多い。
山無し落ち無し意味無しは、動的要素から逃げて、
静止画的要素を永遠に書き続けることと同じなのである。
posted by おおおかとしひこ at 16:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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