現実社会ではやりたいことや目的がない人間はたくさんいるが、
少なくとも物語に登場する人物は、「全員に」目的がなくてはならない。
目的や、夢や、○○したい、○○するつもり、○○する必要がある、
など、大小や緊急度(二時間後までに、とか、いつの日か、ぐらいか)に差はあれ、
これを劇的動機という。
劇的動機は、必ずしもドラマティックである必要はない。
おばさんの「トラブルはごめんだよ」という気持でもよいし、
「小便が漏れそうだがトイレが見つからない」でもいい(「バッファロー66」冒頭の主人公の劇的動機)。
ここで劇的、というのは、劇の中での、の意味にすぎない。
勿論、世界征服をしたい、とか、初恋の人にドラマティックな場所でプロポーズを成功させたい、
とか、故郷に帰り待っている恋人と結婚したい、でもよい。
たいていの場合、その間の中くらいの動機を持っているものである。
何故動機が必要かというと、コンフリクトが生まれないからだ。
登場する人物に動機がないと、相反する目的、というコンフリクトやもめごとが起こらない。
物語とはコンフリクトのことであり、
集団内のもめごとが収束(解決)することである。
同じような目的を共有できる人物の事を仲間といい、
競合する目的を持つ集団を敵という。
どちらでもない目的を持つなら第三者という。
仲間をさがし、第三者を仲間にし、敵を倒すのが、基本的なハリウッド映画のストーリーラインである。
バトルや正義と悪をテーマにしなくとも、
目的と動機がそれぞれの人物にある限り、目的は矛盾しあう。
複数の陰謀が錯綜する政治もの、家族内の小さなドラマでも、それはある。
それらの人物の誰もが納得いく結末に至る(悪役だけは例外的に望まない結末=敗北する)
までが、物語と言う導線だ。
登場人物を創作するとき、僕は目的と立場から入る。
劇的動機をどのようなものにするか、どれくらい具体的か、どれくらい緊急かによって、
前に出てくるか後ろに控えるかというフォーカス具合を考える。
面白いオリジナルな劇的動機は、それだけで面白いものになる可能性を秘めている。
その動機が解消(昇華)するまでが、その人にとってのストーリーラインになる。
立場と目的を一致させるか、矛盾させるかを考える。
就いている職業や身内だからといって、必ずしもその役割通りの目的が一致している訳ではない。
警察だが悪、部長だが責任回避、身内だが味方にならない目的がある、敵の一族だが動機上味方になる、
など、目的と立場が矛盾するところは、ドラマの発生源のひとつだからだ。
目的と立場は、その人物がどのような個性や過去があったにしても客観的な部分である。
これに主観的な部分、すなわち個性を与える。
考え方や性格や、生い立ちやトラウマや、大事にしているものや軽蔑しているもの、
首尾一貫した考え方や、ばらつきのあるところ、などである。
これまでの自分の経験からや、個性ある人物像を借りたりもする。
客観的な部分は、それが誰であったとしても、目的と立場がある以上当然の行動や判断や決断、
というものがある。
主観的な部分は、これに血を通わせる。
たとえ客観的には当然こういうことをしなくてはならない、としても、
その人ではこうは出来ない、などであると、ドラマが深みを増してくる。
(風魔2構想ノートの小次郎を例にとると、小次郎は、立場上、風魔総帥を継がなければならない。
しかし、彼個人の判断は、抜け忍を選ぶ。公私の間で彼は引き裂かれる。ここにドラマの芽がある。
忍びは人間ではない、という掟と、忍びは人間と結婚出来ないという掟の狭間だ。
そして、総帥になることが人間になることであり、姫子を嫁に出来るという光明という
ゴールへ向かって、全ての要素が統合されてゆく)
いわゆる「葛藤」(心の中の悩み)は、目的や立場や事情の矛盾から生まれる。
コンフリクト、すなわち他者との葛藤は、目的の違いや行き違いから生まれる。
これらがもめごとの火種だ。
この矛盾が登場人物の人間関係内の応力となり、異物との出会いで導火線に火がつくのだ。
劇的動機がない人物は、物語の中にいない。
もしいても、その人物は物語で役割を演じないだろう。
どんなに存在感があり、大活躍しても、ただ出ているだけの背景でしかない。
たとえば、物語に出てくる「神」ですら動機を問われる。
ガンツの例を出すと、主人公達が神の前で、「何故こんな世界をつくった」と問う場面がある。
神の動機を問う場面だ。神に動機がなければ、この問いには答えられないだろう。
なぜこんなことをするの?(あるいは、しないの?)と、
色んな場面であなたの登場人物達に問うてみるとよい。
ただなんとなく、であるならば、それは動機を持たない人物である。
それは主体的行動をしない人物で、付和雷同するだけの役割しかなく、
血が通わない、感情移入や共感に値しない登場人物だ。
動機を持っていれば、他の者の行動に、反応する。
嫌なら反発したり離脱したり、邪魔をしたりする。
賛成するなら協力したり、よりよい提案をしたり、進んで命を賭けたり、
概ね同意しながらも自分の主張をしたりする。
彼(彼女)なりの考え方で、目的と立場を踏まえつつ、動いてくれるだろう。
その動きの軌跡を、物語とよぶ。
複数の人物のコンフリクトが、うねり、展開し、動きが成功したり失敗したりする。
主人公だけではなく、物語の「全ての」登場人物が、大なり小なり動機をもっている。
(二時間の映画における登場人物は、僕の経験上5、6人がベストだと思う。
その他は背景扱いで良いと思う。それ以上の複雑な人間関係は、二時間には多いと思う。)
動機を持っていれば、その人物にボールを投げることが出来る。
どう返すかは、その人の動機で違ってくる。
そしてボールを投げ返してくるだろう。
シーンとは、そのような単位のことだ。
そのキャッチボールがどうやって解決まで辿りつくか、を描くのがストーリーを書くということだ。
二人のキャッチボールではなく、三人、四人、五人、六人のキャッチボールである。
全員が同じ所にいない。誰かと誰かがキャッチボールをし、また誰かと誰かがキャッチボールする。
そこにいた誰かとまた別の所の誰かが、キャッチボールして話が進む。
その進行に山があり、谷があり、意外性があり、予想通りがあり、どんでん返しがあったりすると、
面白い展開になるだろう。
面白い展開には、動機が不可欠である。
それは最初から明示してもいいし、どうやらそうらしいと分る感じでもいいし、
最後に真の目的が明らかになるパターンでもよい。
いずれにせよ、作者は動機を把握しておかなければならない。
そうでないと、人物が動いてくれないからだ。
動機のない人物は、物語の中にいない。
あなたの展開部分がうまくいかないのは、劇的動機がうまく設定されていないからかも知れない。
単純でも複雑でも、強くても弱くてもいい。
それぞれの動機の表をつくってみて、整理して見よう。
動機が曖昧なら、具体的な動機を付与してみよう。
一人に二つ以上あったら、ひとつにすると、強い人物をつくることができる。
一人の登場人物につき一つのベクトルがあり、それらが同程度に強いなら、
絡みをつくっていきやすくなるだろう。
2013年10月07日
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