実践編その2。
「割れたせんべい」の、各段階でのバージョンを比較することで、
物語の構造をどうとらえるかについて議論しよう。
まず各バージョンを読んでみよう。最終的には図式化して構造比較してみたい。
最初のバージョンは、「やさしい嘘」というタイトルだった。
第一話は綾子と祐一の二人の話だったので、
第二話にあたる今回では、二人の話を続けるにはゲストという第三者を持って来るのが楽だ。
前回では二人のハッピーエンドだったので、状況が固定してしまっている。
これ以上変化しない状況を変化させるのは壊すことである。
つまり、二人は「愛し合う状態」から壊れる。ケンカだろう。浮気でもいい。
なおかつ、NHKの言いたい内容、「デジタル波になること」の良さをさりげなく折り込む必要がある。
デジタル波の良さを表現するには、それに詳しい人を出して、詳しくない人に説明させるのがはやい。
はやい、とか、楽だ、という判断は、手抜きのことを言っている訳ではない。
表現上の手間がかかるかどうか、という事が基準である。
映像で語る、ということは、一瞬でものごとを理解させる必要があるということ。
ぐだぐだ説明するのは、説明下手の話である。説明下手の代表は、ガッチャマンやハーロックだ。
つまり、説明をするのになるべくエネルギーを使わず、
映像的に簡単に出来ることを最初に探すのが、上手な説明の方法である。
以上の逆算から、
ゲストに父を出し、デジタル波に詳しく、二人のケンカをおさめる話、という大枠が決まる。
なおかつ、前回では「いちごせんべい」という新商品を思いつき売りだす、というオチだったので、
今回も新商品を出すパターンで落とすのがシリーズ感が出る。
ケンカでせんべいが割れ、割れせんべいを新商品にすることで怪我の功名としてイコンにする、
という基本アイデアはこの時最初に考えたことである。
第一稿:やさしい嘘.pdf
「二人のケンカ→父登場→デート→スカイツリーの下で本音を誘導→仲直りの割れせんべい商品化」
という大きな構造は、どのバージョンでも実の所全く変化していない。
その代わり、中くらいの規模での書きなおしが頻繁にあった。
最初は、二人のケンカの原因を明確に描いていた。
煙草の金額ぐらい、と軽く見ている祐一と、一円でも無駄にしたくない小姑のような綾子
(その理由は新しい機械を買いたいからとのちに分る。愛なのだ)の対比である。
のちのバージョンにあるような、実は祐一も綾子を思っていた、という話ではなく、
父が綾子の本音を引き出し、改心する、という単純な話だった。
父は電波親父、という設定で面白味を加え、最後の7/24のオチにも再利用している。
「癌の通知」が、単なる日常のケンカ話に緊迫性をもたらしている。
(緊迫性がなければ、だらだらした話になってしまう。
途中のバージョンからは癌ではなく、綾子が実家に帰ってしまう、ということで緊迫性を描いている)
「仲直り」という商品名を出すのは祐一であり、綾子の主体的行動がない。
綾子は主役、つまり物語を動かす存在ではなく、お客さん、
つまり周りが都合よくお膳立てを整えてくれる役回りだ。
物語を動かすのは父であり、どちらかというと今回の主役を担っている。
レギュラーシリーズの場合、主人公達は、「その回の主役」であるゲストに振り回されることが多い。
この話は「いちごとせんべい」というシリーズの第二話だから、
ゲストが主役である、という考え方自体は間違っていない。
(ちなみに第一話は、綾子が主役で、綾子の頑張りで煎餅屋が持ち直す話だった)
主人公綾子の問題は、前回で昇華されているため、
今回は新たな自我の問題になるか、誰かの問題を解決してあげる話にするのが
レギュラーシリーズの定番である。
今回は後者のパターンで、なおかつ三方まるくおさまるように話をもっていく必要があったため、
父を主役、という考え方にしている。
色々と細かい情報を足して、話を膨らませたのが第二稿だ。
第二稿:やさしい嘘long.pdf
11分の尺になり、他の登場人物も増え、小話というよりは、
我々が普段見るようなドラマの形に近づいてきた。
10分から15分程度でもよい(それぐらいあると見応えもあるし)、というNHKサイドの判断だった。
サービス?で、デジタル波についてより詳しい知識を電波親父が披露している。
末期癌の告知があのようになるのか、などのリアリティを調べ、
物語に反映させようと制作に入ろうとしていた時に問題が起こった。
このミニドラマの撮影時期は「ゲゲゲの女房」も佳境に入ったころで、
人気がウナギ登りにあがり、向井理も松下奈緒も人気者になり、
撮影のスケジュールが取れなくなったのだ。
撮影を三日間でやろうとしていた我々は、急きょ二日に短縮させられる。
二日で11分を撮るのはしんどい。シーン数や人物を減らす必要が出てきた。
つまり分量としては第一稿に近くなる。
おまけに、向井理のスケジュールがぱんぱんで、半日しか取れないことがわかった。
祐一の出番を大幅に削る必要がある。
半日で撮れる分量は、2ないし3シーンが限界ではないか。
撮影場所の移動はあきらめた方がよい。同じ場所なら芝居をじっくり撮れる。
ファーストシーンのケンカ、ラストの仲直りはストーリー上どうしても必要だろう。
となると、同じ場所すなわち店から祐一は動かせない。
綾子と父の話を、単独で中盤に持ってくるしかなさそうだ。
しかも残り一日半で終わり、天候予備を考えたものが。
スカイツリーの撮影で雨が降る訳にはいかない。
とすると、初日、二日目どちらか雨だった場合、スカイツリーの予定を変更し、
雨が降っているとばれない場所、つまり室内シーンを確保しておく必要がある。
雨が降ったからといって撮影中止は出来ない。向井も松下も、その日しか空いていないからだ。
ドラマ内で、屋外のシーンでも雨が降っていてもいいシーンはありえるが、
雨のシーンはたいてい特別な意味、悲しみとか困難とかを暗示する為にあるものだ。
脚本内では、とくに断らない限り、晴れを前提とするものである。
ところが、日本とは、一週間で平均2.5日雨の降る国だ。撮影予定日は6月。
二日とも雨が降らない前提で撮影予定を組む馬鹿はいない。
ということで、綾子が実家に帰る、父と綾子がデートに行く、という話に変更された。
実家は室内、デートもなるべく室内。
(実際、綾子の実家のシーンは雨だった。
次はあそこだな、というシーンもカメラにうつらない程度の霧雨が降っている)
スカイツリーだけは、晴れであるようなスケジュールを考え、
室内と屋外のシーンのバランスを整え、話をその中で糸を通すように考えていく。
第三稿:割れたせんべい.pdf
スカイツリー下で通話してた、というどんでんを仕込み、その場に祐一がいないことをばれにくくする。
祐一の存在感を、出番の少なさの代わりにインパクトをつけるため、
新婚旅行を考えていたから、という「賢者の贈り物」パターンに変更する。
この大手術後、
ケンカの内容は最初に分らないほうが、謎として引っ張りやすいことに気づき、
ケンカをサイレントにしている。
癌の話がなくなったため、話の焦点を最初に設定する必要があるからだ。
なぜケンカが起こったのか、という謎でしばらく引っ張ることにする。
父が会社休みだったと嘘をつく、という「やさしい嘘」の本質的な部分を移植して、
父の人間味を足す。
萌え萌えじゃんけんはやりすぎか、となるべく親父に似合わない「ふわふわスイーツ」に
デートの内容を変更。(結局、両方やることになったけど)
第四稿:割れたせんべい準備稿.pdf
さらにその後、
父と祐一が電話してつながっていた方が、通話のどんでん返しの伏線になるのでは
(なくてもいいけど、NHKの対象とする全ての視聴者に分りやすいのでは)、
という指摘を受け、ワンシーン夜の会話を足したり、
泊まった間、寂しくて互いを思って互いの象徴である「いちご」と「せんべい」を食べてた、
という小エピソードを、第一話を見てないと分らないエピソードであるから、
という理由で削っている。
また、乾燥の工程では実際に煎餅が割れることはあまりなく、
味をつけるドラムで割れることがある、というロケ地の煎餅屋さんの話から、
ドラムに変更するなど、
細かいディテールを詰めて最終稿にしている。
大枠は変わらないものの、
ここまで脚本というものはディテールが変わることに注意されたい。
焦点(今何が心配事か)も、ケンカの原因を伏せたり、癌の父という要素がなくなったり、
様々に変更が行われる。
焦点が変われば、焦点を変えるターニングポイントも変わる。
父の荷物から告知書を見つけるシーンは削除されるし、
ケンカの原因が分る一点へ、物語の流れが統合されるように他のシーンを組み直す必要も出る。
これらは中規模の構造変化であり、
セリフの改訂や小シーンの足しなどは小変化である。
この例では、これだけ表面上の変更がなされたとしても、
「二人のケンカ→父登場→デート→スカイツリーの下で本音を誘導→仲直りの割れせんべい商品化」
というおおもとからの一連の構造は、まったく同じであることに注目されたい。
つまり、乱暴にいえば、これらのバージョンは全て同じ話である。
もっと言えば、動機が変わっていない。
綾子は新しい機械を買いたくてお金を貯めたい、であり、
父は東京観光したいし二人のケンカをおさめたい、である。
(祐一は、途中から新婚旅行に金を使いたい、に変更している)
祐一の視点が遠ざかったものの、綾子と父に関しては、同じ話なのだ。
物語は動きだ。
動きの原因は、動機だ。
動機と、動き(行動)が変わらなければ、
場所や他の要素の多少、シーンの順番の変更、他の登場人物の変更があったとしても、
それは同じ話なのだ。
「割れたせんべい」では、同じ話の例だった。
これが話の本質(メイン登場人物の動機や動き)が変わると、構造を直すことがより困難になる。
脚本打ち合わせが、まずはプロットで打ち合わせするのは、
話の構造を可塑的にするためだ。
ディテールを変更するのは、この程度のページ数ならそれほど手間ではないが、
120ページ近くの脚本をここまで手を入れるのは、相当骨が折れる。
プロットが変更になれば二重三重に難しい。
だからプロットは大事なのである。
プロットで面白くない映画は面白くない、と言われる。
それは、プロットで練られていない、という意味だ。
平凡なプロットで表面上面白い映画は沢山ある。
だがそれらは、練られたプロットの物語には勝てないだろう。
「作品置き場」におさめた、ガッチャマンやマトリックス2、3のプロットをご覧になっていただければ、
脚本状態になっていないのに面白い話であることが、分ることだと思う。
2013年10月08日
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