2013年10月11日

センタークエスチョンと「そして父になる」

センタークエスチョンの話を前記事で書いて、
「そして父になる」を思い出した。

なかなかの佳編である。
人間をあぶり出す巧みな問題設定、
綿密な取材に基づいたリアリティーある描写、
とくに子役のリアルさは、子供演出が得意と言われる僕以上の手練れを感じた。
僕はあそこまでリアルに持ち込む自信はない。

だが、ストーリーテリングという点ではあの映画は今一つだ。
ただ与えられた苦境にいるだけで、問題の核心に迫ったり、
当事者にしか分からない苦悩を、門外漢の我々が我が事のように感情移入したり、
物語のカタルシスは感じられなかった。
勿論、一般的な正解のない問題であり、それがテーマ性なのだから、
迂闊な断言はしないほうがよいという判断もある。
だがこれはドキュメントではない。劇映画だ。
実際の事件を元にしようがするまいが、
この物語は元の事件の結論を断ずるわけではない。
断ずるべきは、あくまでこの映画内のケースにおいてだ。
その彼我の区別を、是枝という人はなるべく曖昧にする作家である。
ドキュメント寄り、という出自が売りという自覚もあるだろう。

だからこの映画は、ルポの中の一人の決意を見た気にはなるが、
お話を見た気にはならない。
こんな事が自分に起きたらどうするだろうというリアリティーは見た気にはなるが、
それが自分の人生に何か意味を追加するストーリーを見た気にはならない。
結論を断じないエンディングは余韻を持たせるが、
複雑な現実から何かを抽出して物事を考える、
という物語特有の楽しみがない。
リアリティーは重要だが、リアルに拘るあまり現実以上のリアルを
構築出来なかったように感じる。

ストーリー構造に必要なものは、センタークエスチョンだ。
これが解決されれば物語は終わる、と予感させるものだ。
「割れたせんべい」の例では、二人のケンカは元に戻ったらオシマイ。
このラストの解決(もっとも描きたい瞬間)のために、異物との出会いや、
スペシャルワールドでの冒険や、感情移入や、どんでん返しを組むのだ。

センタークエスチョンは、全編を通じて同じ形であるとは限らない。
ある形を取っていたものがストーリーの展開を受けて、
途中でより進化したパターンになることもある。
「割れたせんべい」では、二人は仲直り出来るのか、がセンタークエスチョンだが、
スカイツリーで綾子の思いが明らかになったあとは、
祐一の思いは何か、それを知らないと仲直りの土俵に立てない。
二人は互いの思いを知った上で仲直りすべきだが、そのようなラストは訪れるか、
がセンタークエスチョンになる。
大抵、よりディテールは細かくなってゆく。

また、センタークエスチョンは最低二回観客に提示される。
第一ターニングポイントと第二ターニングポイントである。


「そして父になる」では、センタークエスチョンが曖昧だ。
彼らはどうするのか、とか、段取りは進行しているが本当の所どう思っているのか、
のような、イエスやノーで答えられないタイプのものだ。
だからどうすればこの物語は終わるのか(結論が出るのか)が
分からない。結論探しの過程だからだ。
センタークエスチョンを探す話だ、と言ってもよい。
センタークエスチョンとは、最後に○○だと結論が出ると思われる、
具体的な期待と言ってもよい。
この映画のようにセンタークエスチョンが曖昧だと、
ラストに何を期待し続ければいいのか曖昧になる。
血を取るのか今までの時間を取るのか、のような明確な問いがセンタークエスチョンになるなら、
物語の軸は明確になる。
主張の異なる人々が、第三の結論を出すまでの物語にすればよいからだ。
福山を血である、リリーを時間である、
という陣営にして、両方引き取るという主張に変えたりして展開し、
仮にどちらかで暮らして問題が起こり、
妻たち子供たち福山の両親まじえた異なる主張から、
ベストを模索するストーリーラインになった筈だ。

ところがセンタークエスチョンが曖昧なため、
ストーリーラインがずっとぼんやりしている。
何のためにこうしているんだっけ、
ということが不明になる。焦点がぼける。
特にミッドポイント、犯人は看護婦、以降が焦点がぼけている。
子供の交換に必要な段取りを時計がわりに使うのは巧妙だが、
それぞれがどうしたいからこれをしている、
というのが分からなくなる。
だから明快なコンフリクトもなく、流されているだけになる。
登場人物は受身中心になり、感情移入は遠ざかる。

第一ターニングポイントは子供の交換を決め、部屋を片付ける場面だが、
第二ターニングポイントがどこか分からない。
琉晴の家出が大きなイベントだが、主人公の福山の行動でないため、
センタークエスチョンの再提示もその後に待ち受けるクライマックスへの期待もない。
だからこの映画にクライマックスがない。
ギターを鉄砲にしたところか、テントの流れ星のシーンか、
カメラの写真の場面か。明確に存在しないのだ。
だから後半暗転が入るたびに、ここで終わりと言われたらどうしよう、
と心配してしまう。
どこでこの物語を終わりにするか、予想出来ないからだ。
それはつまり、センタークエスチョンがないことである。


物語の焦点を決定づけるのはセンタークエスチョンだ。
それは第一ターニングポイントと第二ターニングポイントで、
確認される。

構成はまずこの二点から考えないと、
クライマックスもストーリーの芯も決められないだろう。
「そして父になる」は異物(取り違え事件)、
二家族の対比という静止画要素はすごく面白い。
しかしストーリーテリングや動きが面白くなかった。
リメイク権を買われたということは、
この題材でストーリーテリングの天才スピルバーグが語りに来ると言うことだ。

あなたならこの題材で、
第一ターニングポイント、
第二ターニングポイント、
センタークエスチョンをどのように構成し、
主人公の行動をどのように連鎖させるだろうか。
クライマックスは、何を争うのだろうか。
考えるのは、ストーリーテリングの訓練になる。
posted by おおおかとしひこ at 00:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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