2013年10月17日

おはなしとは、謎に答えることだ(10/14の記事を10/17大幅改訂)

物語とは何か、ということのひとつの見方。
謎に答えることがおはなしである、という説。


人はこの世に生を受けて、物心がついてくると、
親に、大人に、質問ばかりする。

空はなぜ青いの? 虹はなぜ7色なの?
富士山はなぜ高いの? 病気になぜなるの? 死ぬって何?

人間は、質問する生き物だ。

科学はそのプリミティブな問いに答えようとして発展してきた。
錬金術、数学、古典物理、神学や哲学からはじまって、
すべての学問は、何故○○は△△なのか?に答えようとするものである。

人間は、質問する生き物だ。これに答えが与えられると満足する生き物だ。
時計を分解するように、全ての謎が明らかになるまで、
その探求をやめない生き物でもある。

かつて、神話がこれに答えた。
イザナギとイザナミが日本を生んだ、
キリマンジャロは○○(神様とか始祖など)によって生まれた、
人は天国へ行くが悪い行いをすると地獄に行く、
などである。
原始宗教といってもよい。
世界はどうやって生まれたのか、という理由を、
人は「物語」の形で伝承してきたのだ。

それは、現代科学でも同じである。
「理由」を、人は物語の形式で記述する。

物語は、謎と、答えのワンセットなのだと考えると、
我々書き手の考えが整理できると思う。


逆に、理由のないものは、「幽霊話」として珍重される。
「怖いトンネルをバイクで通った。あとから追いかけてきた警官が、
後ろの人がメットを被っていなかったが、あの女性はどこへ行ったのだ?という。
バイクには一人で乗っていたのに。警官が見た女性とは?」
などのような、あとで検証できないものこそ、幽霊話の真骨頂だ。
わからないと恐い。恐いから幽霊話は人気だ。
恐いことに、我々は「幽霊」と名前をつけて安心する。
幽霊だから、という理由が、物語の不可解を「理解」に変える。

わからないことは恐怖である。
人はそれを分ることで、安心を得る生き物である。


長じても尚、我々は日常で問いを発する。
どうしてこうなった、
あの子はどうして俺を好きにならないのか、
何故アイツが人気なのか、
何故景気はよくならないのか、
などだ。
人が集まればこういった話になる。
会社でも、学校でも、プライベートでも、ネットでもだ。

週刊誌やニュースでも、
何故殺したのか、事故の原因は、
実力もないのに人気なのは枕営業だから、
などで満載だ。
暴露が人気なのも、「納得の行く理由が明らかになる」からだ。


人は、謎を話しその理由を探す生き物だ。
答えを知り、その理屈が分かると快感を覚える生き物だ。
すぐ答えのないものは、必死で理由を考える生き物だ。


おはなしとは、謎と答えのワンセットである。
その連鎖である。
「謎」の形をしていなくてもよい。
あることが起きて、次のことがそれゆえに起きているなら、
そこには因果関係がある。
それは、最初のことが謎であり、次のことが答えに当たることと同じである。


映画脚本におけるセンタークエスチョンは、
問いの形で問われる。
「地球は救われるのか?」
「主人公は勝利するのか?」
「この恋はうまくいくのか?」
などである。
その答えは、なかば「イエス」であることは、
映画を見る人は、ほとんどが知っている。
にも関わらず、面白い映画は、その結末まで人を引き付け続ける。

それは、最終的な答えを、きちんと知りたいからである。


そうでなくとも、
上手い脚本は、小さな謎を前振り、その謎でストーリーを引っ張るものだ。
彼女の発言の真意とは…
この作戦の隠された意味に皆が気づくとき…
今は伏せておくが…

逆に、謎解きや答えが現れるシーンは皆が楽しむ。
実は○○だったのだ!
こうだと思わせておいて、真実は違っていた!(どんでん返し)
○○はミスリードだった!ひっかかったぜ!
そういうことだったのか!
正体が明らかになる

などが代表的なものだ。
定型を使わずとも、
理由を伏せたり、すぐには答えを明かさなかったり、全貌を隠したり、
思わせぶりにしたりすることはしょっちゅう使われる。

それ以外解釈の余地がない明解な結論、
いくらでも解釈の余地を残す結論、
なるほどこれならこういうことか、と次に期待を持たせる場面なども、
しょっちゅう使われる。


おはなしとは、理由探しである。
動機探しである。
秘密探しである。
素性探しである。
真実探しである。
さまざまな部分に隠された一本の真実の筋を、明らかにすることである。


それを知り続けて、人は満足する。
小さな謎を明かし、次に新たな謎が生まれ、
最後には全ての謎が明らかになるから、人は満足するのである。


あなたの脚本が、そのように書かれていないなら、
それはただの記録であり、「おはなし」のクオリティに達していない、
楽しめない脚本だ。
なにかの話、なにかの軌跡が書いてあったとしても、
それは見る人とのセッションをしていない、一方的な語りである可能性が高い。


おはなしは、適度な謎や伏線や引っ張りを楽しむものである。
焦点は、そこに絞られるべきである。



おはなしを我々が見続ける理由は、
結末という答えを知りたいからである。
ラストこそ謎の答えなのだ。

事件の理由、さっき行動した理由、今これをする理由、
敵の行動の理由、ヒロインが去った理由、
これらが明らかになるから、人は物語を見続ける。
だから理由が急に分からなくなる「出来ていない」脚本は、
見る人への裏切り行為なのだ。
何故この人はこうするの? 今何のためにこれをやってるの?
などの疑問が、物語を見続ける原動力ではなく、
分からないから飽きてくる力になったとき、それはダメ脚本と呼ばれる。

今扱っている謎を焦点という。
焦点は、謎の答えが明らかになることを期待させる。
以前出た謎で、まだ明らかになっていず、現在の焦点になっていない、
宙ぶらりんになっているものを伏線という。
物語は、これらの謎が全て無矛盾に解決されることを期待して、
見続けられる。
(だから矛盾した結論や、解決しない謎を残すと、モヤモヤする)



ラストが明らかになったとき、
ストーリーの中にない、もうひとつの大きな謎が解かれる。
それは、「この話が自分にどういう意味があったか」という謎だ。
これをテーマという。

これが明らかにならないと、話は面白かったが意味がなかった、と言われる。
ただ明らかになっても、話はまあまあ面白かったが、テーマがださいと言われる。
そのテーマが、我々が共有する価値があり、
その真に迫った面白い物語が両方あるものだけが、
「面白い話」と言われるのである。

おはなしとは、謎に答えることだ。
書く側からすれば、うまく謎を小出しにして、鮮やかな答えを用意しておくことである。


ミステリーというジャンルは分かりやすい。
犯人は誰か、トリックは何か、がセンタークエスチョンであり、
その謎解きがストーリーの全てである。
途中の人間ドラマも冒険も、「何故殺したのか?」に答えるためのものだ。
そのトリックや種明かしの鮮やかさを競うのがミステリーというジャンルだ。

もしそれが、人間の業をうまく描いていたり、
ドラマとしてテーマ性があるとき、それは単なるパズルの知恵比べではなく、
映画や文学という格に昇格することが
時々ある。

逆に、うまく答えが出ないのは「解決しない物語」と言われる。
エヴァが代表的だ。謎の伏線の解決が、我々があの物語を見る理由だが、
テレビ版や映画版でそのスッキリした答えは得られなかった。
新劇場版など、答えのかけらを次々に撒いて金を永遠に稼ぐビジネスモデル、
という発明なのではないかとすら思う。
キャバ嬢と同じような。

それだけ我々は、「謎」「解決しないこと」「解決する期待」が大好物である。

物語とは、それに答えることでもある。
(ほんとうにエヴァは完結するんだろうな!
大昔からの付き合いだが、「幻魔大戦」「ガラスの仮面」「ベルセルク」
「バスタード」「はじめの一歩」は、納得のいくラストを用意するんだろうな?!
「GANTZ」はコミックス版で大幅書き直しがあるんだろうな?!
「グインサーガ」は読んでなくて、助かったというべきか)



テーマはテーゼ(単語ではなく、証明すべき定理のような、断言する文章)の
形をしている、と既に書いた。
この話の意味は、テーマ(○○は○○だ、などの形式)だ、
と分かると、人はおはなしに意味を見出だす。
テーマの定着である。

何故人はおはなしを聞きたいのか。
わくわくする謎に出会いたいからだ。
そしてその謎の答えをスッキリする形で知りたいからだ。
それを知ったとき、自分の人生に意味を見出だしたいからだ。

あなたの書くおはなしは、そういうものになっているだろうか。
なっていないなら、多分あまり面白くないだろう。
posted by おおおかとしひこ at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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