2013年10月14日

主人公は、第一ターニングポイントで言い出しっぺになる

映画脚本は、冒頭30分がその出来を決めると言われる。
ACT 1という三幕構成の一幕目だ。
そのクライマックス、第一ターニングポイントでは、
主人公はこれからの冒険へ旅立つ意志を示さねばならない。
もう少しくだけて言うと、言い出しっぺになる、と言うことだ。
今後の続きは、その責任を取るまでの話、と考えるとよい。

アメリカ型の行動力溢れる主人公ならいざ知らず、
大抵のリアル日本人は行動に消極的だ。
困ってる人に身を挺して親切にしたり、
好きな彼女に果敢にアタックしたり、
不正を糺す為に社内で行動を起こす者は稀である。

だから物語中の主人公の行動に、ドキドキするのだ。
自分では普段出来ないことを、勇気と正当な動機で行動する
主人公の行く末にハラハラするのだ。
自分では現実には到底出来ないことを、
普段なら不可能と思えることを、
現実では様々な障害があって潰されてしまうことを、
物語の中では主人公が「敢えて」やろうというのだ。
だから行く末が気になる。

最初はどうせ失敗するんだろ、と冷徹に見られる。
だがあるところを境に、これは上手く行くかも知れないぞと思う。
成功の方向へ向かったり、失敗の方向へ向かったり、
不安定な状況にやきもきする。
その行動が、主人公の事情を知れば知るほど成功してほしいと思う(感情移入)。
妨害する障害が理不尽で悪いほど、そんなやつぶちのめしてしまえと願う(悪役)。
ピンチに陥り絶体絶命の窮地におちいっても、主人公は希望を捨てない(強い劇的動機)。
ついに最後の課題をクリアし、主人公は成功する(カタルシス)。

この冒険譚が上手くつくられるには、
ACT 1が上手く出来ていて、冒険へのカタパルトになっている必要がある。
何故主人公はこの危険な(物理的に命に関わる、から社会的生命に関わる、まで)
冒険に出ようとするのか、
その冒険の成功を期待する要素(確実でも無理でも面白くない。もしかしたら行けるかも、
あたりが一番面白い)はなにか、
そのあたりが上手く描けている必要がある。

その30分のクライマックスは、第一ターニングポイントと呼ばれる。
主人公の冒険の出発への決意表明であり、
冒険の最終目標(センタークエスチョン)を確認する場面だ。


だめな脚本は、ここが下手である。

日本人はただでさえ行動するのが苦手であり、
脚本という妄想を書く物書きなる人種は、さらに現実に上手く切り込めない人達だ。

出来るだけ他の人がやってくれて、オイシイ所だけさらって称賛されたい、
しかもあからさまでなくさりげなく、という願望がある。

これを書いてはダメだ。

日本の小説は大抵一人称形式で、
自分は地味で平凡なのだが、エキセントリックな人と出会い、
その人に導かれて日常とは別の世界にゆく、
というパターンが多い。それはこの願望の具現化のパターンだ。
所々で自分の意志を確認してくれるが、
基本はそのエキセントリックな人が(何故か気が合うという理由で)
物語を引っ張る。お膳立てを全て整えてくれ、自分は選ぶだけでよい。
その人はクライマックス直前で死ぬ。
ラストに初めて主人公は一歩前に出る、という終わり方の物語だ。

一人称なら主人公主観だが、三人称である映画や演劇では、
これは「なにもしない主人公」である。

具体的な映画がある。「落下する夕方」を見よ。
原田知世演じる主人公は、エキセントリックな菅野美穂に振り回されてばかりだ。
主人公の目線から見れば、へんてこな世界に導いてくれた人との出会いだが、
第三者から見れば、地味で行動しない女の手を、派手な女が引っ張り続ける。
映画は、行動する側が物語を動かす。
脇の原田は、菅野の腰巾着だ。なにもしない。
菅野の記録係に過ぎない。
映画では、腰巾着の記録係は主人公とは言わない。
ホームズが主人公であり、ワトソンは脇役である。

「蛇いちご」でも同じである。主人公が行動するのは三幕だけだ。
そういえば「そして父になる」でも、
主人公の「流れに逆らう」自らの行動は、パパだったんだよ、のラストだけだった。


「主人公が一歩踏み出して終わるシンドローム」とでも名付けようか。
もし元野球部の彼が主人公だとしたら、「霧島、部活辞めるってよ」も
同じタイプの物語だ。(群像劇なので厳密には違うが)


行動には責任が伴う。
主体的といえば聞こえはいいが、それは他人から見たら身勝手だ。
そんなことをするなら、日本人は我慢して黙る事を選ぶ。
どんなに正当な理由があっても、表明する手間を惜しみ、誤解を怖がる。
アメリカ人のヒーローのように、何も考えず飛び込むことはしない。

だから、言い出しっぺになる、と考えるとよい。

意志を表明し行動する事は、日本人的に言えば、
言い出しっぺになり、その責任を引き受けるということだ。

責任を持とうとする人を、人は応援する。
上から目線で批判する人や、正論や耳障りのいいことしか言わない人や、
オイシイ所だけ持っていく人を、人は好きにならない。

冒険の意志を示す所で終わる物語は、
冒険の前日譚と言われる。平たく言えばバックストーリーだ。
冒険の本編が、映画の本編である。
冒険に乗り出すまでがACT 1であり、
冒険の本編がACT 2であり、
冒険の決着がACT 3である。
それらは大体30分60分30分の比である。

一歩踏み出して終わる話は、
映画でいえば、ACT 1で終わる話と同じだ。
それからの冒険の日々が本題であり、娯楽ショウの内容なのである。

映画は、少なくとも1/4までには、主人公が言い出しっぺになる。
残り3/4で、主人公はその責任を取り、波紋が広がり、
協力者や反対者が現れ、最後に何かをなし得る。
そしてそれが見ている我々の代償行為となり、
だからこそテーマが我々に意味を持つ。
そもそもそれは、言い出しっぺにならなければ始まらないのだ。

第一ターニングポイントには、このような役割がある。
自らの意志を示さないのは、ご都合主義であり、
責任をなるべく回避したい作者の内面の無意識の現れだ。

リアルの人生で、言い出しっぺになる経験を積もう。
それがどう展開し、どうけりがつけば完結するか、
経験しなければ分からない。
責任を取る経験がないと、責任を取ることがどういうことか書けないだろう。

それをそのまま書いてもいいし(リアル系の物語)、
創作上に応用して(ファンタジー寄り)もいい。


言い出しっぺになろう。
そこからがようやく苦労のはじまりで、
成功へのはじまりなのだ。
posted by おおおかとしひこ at 15:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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