(10/18の記事を、分かりにくいので10/19改訂)
先日、革製の名刺入れが新橋に落ちているのを見つけた。
こんな妄想をした。
この名刺入れには、本人の名刺は一枚も入っていない。
その人が交換した相手の名刺が沢山入っているだけだ。
一体、この人達が共通して名刺を交換した、落とした持ち主とは誰か?
特定して、本人に返しにいくと面白いぞ、と。
妄想しただけで、現実には通り過ぎただけだが、
これはドキュメントと物語の中間にある題材だと思った。
果たして俺はこの人達が会った唯一の共通人物、
すなわち持ち主を特定し、無事名刺入れを本人に届ける事が出来るのか?
というのがセンタークエスチョンであり、
革製の名刺入れだからさぞ高かったろうに、
連絡関係はさぞ困るだろう、
というのが感情移入だ。
片っ端から入っている人に連絡を取り、最近名刺交換した人を教えて下さい、
みなさんのリストの中の、ただ一人共通する人物が落とし主です、
という行動が、言い出しっぺの取る行動であり、
個人情報うんぬんがあるから、いきなり教えてくれなさそう、
というのが想定される障害だ。
このドキュメントをつくるなら、俺の行動周りでカメラを回して、
あとはオイシイ場面を編集すればよいだろう。
想定される場面は、
名刺入れを拾い、中をあける、
しかし本人の名刺は一枚もなく、
名刺交換した相手だけが入っている場面(異物との出会い)、
連絡を取りはじめる場面(第一ターニングポイント)、
初手から断られ落ち込む場面(障害)、
親切な協力者が現れる場面(展開)、
何人かに絞られる場面(障害)、
この調査は、人の親切がまだ東京にあることを知りたいからなのです、
と俺が粘り、最初の断った人が協力してくれ、
ついに落とし主が特定される場面(第二ターニングポイント)、
いよいよその人に会い、名刺入れを返す場面(クライマックス)、
協力してくれた人全員にお礼メールを出し、
次会った時に「この件の話題を出した人が、あなたに協力してくれた人ですよ」
と本人に言ってあげて下さい、ご本人は、その意外なほど多い人数に、
目には見えない親切のネットワークにびっくりするでしょう、
と俺がしめる場面(ラストシーン、テーマの定着)、
などである。
このドキュメントのテーマは、「親切は、実在する」である。
ドキュメントなら上手くいく保証はなく、
特定が上手くいかない場合、「意外なほど、知らない人に心を閉ざす」に
テーマを変えて追加撮影や編集方針の再検討が必要になるだろう。
これが物語なら、テーマは、「親切は、実在する」である。
なぜ俺の行動を見守り、結果を気にするのか。
それは、「親切が実在すると思いたい」からだ。
冷たい人達や、リテラシーの拡大解釈で親切すら難しくなってる世の中が、
嫌な人ほど、この結論を期待する。
「やっぱみんな教えてくれなかったです」と結論されたら、
自分のまわりの世界が窮屈で満たされている、という結論になってしまう。
それは嫌だ。
新橋あたりの現実に親切が存在しなくても、
世界中全てがそうだと思いたくはない。
だから、親切は世界にある、という結論を見たいのだ。
俺の行動は、現実には面倒なことである。
しかし実際にやれば、俺の行動の結末が気になる筈だ。
言い出しっぺの俺に、感情移入はしないかも知れないが、
責任を持って行動する主人公俺を、心理的に応援するのだ。
テーマとは、実はみんなの中の無意識にある。
そうだと言って証明して欲しいことなのだ。
正義は勝つ、悪は永久に栄えることはない、などは普遍的なテーマだ。
それは、いつの時代でも、どんな国でも、
悪が理不尽を働くからだ。
世界に正義があることを信じたい、という無意識があるのだ。
我々芸術家は、世界の人々の無意識にある、
まだ形になっていないものを形にしてみせることが使命である。
それが同時代的であればあるほど、そう思う人が多いほど、
感応する人が多い筈である。
それが普遍的であればあるほど、それは時を越えるだろう。
一人よがりのテーマが何故よくないか、の理由がこれである。
それは、我々人類の集合的無意識に価値が低いからだ。
これは、媚びることを奨励しない。
むしろ、新しい無意識を探せ、という、最も難しいことを言っている。
ドキュメントは、行動の結果に一喜一憂すればよい。
しかし物語は違う。我々が無意識に思っているテーマを、
形にして結論にしなければいけないのである。
僕はドキュメントを否定しないが、
カメラを回してオイシイ場面をつなげばいいや、
という安易な方法論の否定派である。
それは、テーマという、無意識を形にする、という一番難しいことから逃げているからだ。
逆に、優れたドキュメントは、必ず物語と同じように、
テーマがある。
さて、親切は実在したのだろうか。
それは、俺が言い出しっぺにならなかったので、分からない。
行動し、責任を取らない、評論ばかりしている主人公に、
魅力がないことが分かる例である。
2013年10月19日
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