2013年10月20日

イコンの話: 新橋に落ちていた名刺入れ2

同じ話を使って、イコンの話をしてみます。

ドキュメントと物語の違いは、
イコンを意図的につくるかどうかの違いでもある。
タイトルにもなっている、「新橋に落ちていた名刺入れ」の
ビジュアルを、言葉だけからあなたはどのように想像しただろうか。

東京以外の人は、新橋という場所を知らないだろうから、
橋のある場所を想像したかも知れない。
新橋というからには、コンクリート製の新しいキレイな橋を想像したかも知れない。
東京の新橋は、そういう所ではない。
よくテレビの街頭インタビューで、酔っぱらったサラリーマンが
マイクを向けられている広場が、たいてい新橋のSL広場だ。
橋はない。厳密には銀座との境にあったが、首都高速ができた高度成長期以降はない。
新橋は、最初に鉄道の駅が出来たところだ。日本最古の駅前の往来、といってよい。

その出自によらず、現在の新橋は、昭和の匂いが色濃く残る、
酔っぱらったおっさんの聖地のようだ。
飲み屋だらけの、いわゆる昭和の歓楽街である。

その新橋のどの辺に落ちているイメージか。
地面はアスファルトか、それとも植え込みの中か、タイル張りの歩道か。
路地裏の省みられないところか。
表通りに近い、比較的人通りのある所か。

おそらく、普通のアスファルトだ。
オヤジのゲロの隣やゴミ箱の隣のような、手を伸ばしにくい所にではなく、
普通の所に落ちている。
しかも、往来の人々の足が、その周りを行き交う。
気づかずに踏む人もいる。
踏みそうになったのに気づいて踏むのを避ける人もいるが、
拾われることはない。

これは、大都会の人間関係の象徴だ。
人は沢山いるのに、否、いすぎるがゆえに、
誰も他人に関心なく、足早に通りすぎるだけなのだ。
名刺入れには他人の象徴たる連絡先が沢山入っている。
なのに、その人のリストは何の役にも立たない。
だからこの名刺入れは、表通りや人の往来のはげしいところに落ちているべきだ。
地面はアスファルトがいい。
タイル張りや植え込みや噴水は、他の意味が出てしまう。
ただの都会の地面がいい。かすれた白線があったりすると絵になる。
往来する足は、おっさんサラリーマンの革靴8、仕事をしてる女のローヒール1、
キャバ嬢の派手なヒール1の割合だろう。

皮の名刺入れは何色か。
アスファルトと似た黒か。目立たなくて拾われにくいリアリティーがある。
違う。
この話のテーマは、都会は薄情だという思い込みを覆したいことだ。
まずは都会が薄情であることを暗示するべきだ。
目立たない者が無視される話ではない。
普通なのに無視される現実が必要だ。
だから茶色あたりがいいと思う。
銀色の金属製にして、そこに通り過ぎ行く足を反射させて写すテクニックもあるが、
そこまで派手にしてはまた別の意味になる。
目立とうと思うから悪いという暗示になる。
同じ意味で、赤や黄色の名刺入れも派手でダメだ。
ごく普通の茶色がいい。

時間帯は。
酔っぱらい過ぎない、人々が平静でいられる、
夕方前後がいい。
本人が酔って落としたような、本人に落ち度がない落とされ方であることも暗示出来る。
アクシデントで落としたのだ。
だから落とし主探しに、みんな親切にしてくれる。


これらのビジュアルのディテールを決めることは、
演出と理解されることが多い。
わかりやすくする、というのがその目的だと誤解される。
否である。

演出の目的は、ノイズを除くことなのだ。

ゲロの隣に置いたり、ハイヒールの多い場所だったり、深夜だったり、
表現意図と違って誤解されるような要素を取り除くのが、
最も大事なことなのだ。

だからただのアスファルトの、新橋っぽい人々の足が関心もなく通りすぎ、
夕方ぐらいの時間帯に、茶色い名刺入れが落ちている必要がある。

これがイコンである。
絵による物語の象徴だ。

都会の喧騒では、誰も他人に関心なく、
落ち度がない困ったことに、誰も助けようと思わないことを、
この絵一枚に込めるのである。


ドキュメントではこうはいかない。

実際に僕が見た名刺入れは、黒で目立たず、
汐留エリア地下道からJRの地上に出るエスカレーターの出口付近に落ちていた。
歩く往来の足も、右から来る人がいれば左から来る人もいる、
という一般的な往来ではなく、
エスカレーターの出口ゆえ、一定の方向に歩き続ける足たちだった。

確かにリアルだ。
が、この絵で上のような表現意図は表現出来ない。
逆にこのままの絵だと、
急いで同じ方向に歩き続ける人々には、
そこから遅れこぼれ落ちた地味なものは見向きもされない、という意味になる。
微妙に異なる。
「進む」や「遅れる」というニュアンスのノイズが入る。

ドキュメントの場合、このノイズ除去は出来ない。
別の場所で絵を撮れば、それはやらせになるからだ。
(厳密には、この程度のやらせは許容範囲だろうが)
だから、絵にナレーションを被せ、意図通りの象徴に誘導する。
ドキュメントにおけるナレーションの状況説明は、
ノイズ除去であり、情報の整理だ。

物語表現では、そんなことはせずに、
純度の高いイコンをつくりこむ。


ノイズを除去すると、
対象物が引き立つ。

錦絵で背景を描かず空白で埋めたり、
ポスターで人物の背景を空一色にしたり、
写真で背景をぼかすのは、対象物だけに注視させるためだ。
そして残りの余白で、想像させる余地を残すためだ。


そのような教養を持たない人のつくる絵は、
全ピクセルを埋めようとしてしまう。
デジタルの普及、HDの普及によって、それはより顕著になりつつある。
一枚あたりの情報量が多くならなければならない、という強迫観念や、
貧乏性でもあるのだろうか。
いつの時代でも、一枚の絵に必要なことは、
「ひとつの意味」であり、
よい絵には想像を巡らせる余地がある。
見るがわの想像を舐めてはいけない。
作者の技量以上のことを、時に補完してくれたりする。


漫才は、二人がハの字に立つ、という知識は、
関西人以外も常識で知られているだろうか。
何故かというと、リアルな会話のように二人が向かい合って立つと、
二人の表情が横顔になって見えないからだ。
会話する二人ともの顔が見れないと、
会話の内容や面白さに集中出来ない。
今のリアクションの表情が見れなかった、
ということがあると、それが会話への没入のノイズになるのだ。

これを正面性という。
人は、すべからく正面に向いたものを、自分への表現と見なす、
という直感を芸術用語にしたものだ。
当たり前ではないか、と思うが、
逆に、後ろ姿や横顔は、真の感情を隠している、という表現に使うことができる。
目をそらす、という単純な芝居も、正直なことを言えない、
という暗示になる。

漫才におけるハの字立ちや、お客さん最近こういう事がありまして、
という枕や、ツッコミを本人にせずマイクや客席に向かってするのは、
全て正面性を保ち、横を向いている、というノイズを除去するためである。

映画における会話の切り返しも同じである。
二人が向かい合って話すのをひとつのカメラで撮れば、
両方の横顔か、一方の正面と他方の背中しか撮れない。
だから二台のカメラで、両方の顔を撮り、編集でひとつに繋げる。
もし片方が横顔しか見せていなかったら、
それは明らかにその人が本心を出していないという表現になる。


ラブストーリー映画のポスターで、
男が後ろから女を抱きしめている構図が多いのは、
二人の顔が同時に一枚の絵で見えるからだ。
キスシーンや、正面から抱き合ってしまうと、
二人の顔は横顔しか見えない。
二人とも正面性を確保するのは、
女を男が後ろから抱きしめているポーズしかない。
たとえ本編にそのポーズがなくても、
二人を見せたいなら、このポーズしか解がない。


これらの例のように、
つくりものには、リアルだと発生してしまう、
表情意図にそぐわない余計なノイズが、
丹念に除かれている。

そしてそれがイコンになるように計算されているのである。

漫才なら二人の会話、ラブストーリーなら抱きしめる二人、
名刺入れならアスファルトの上だ。


おはなしは、リアリティーが大事だが(嘘っぽいのは論外!)、
それ以上に、余計なノイズが除かれて、
対象物だけが際立つようなイコンが組み込まれているかどうかが大事だ。


この話が物語になるなら、
名刺の各相手は、互いにキャラが被らない、
キャラの濃い連中として描写されるはずだ。
ドキュメントならキャラが被ったり、
あまりキャラが立っていない人物も混じるだろう。

しかし、物語なら、ワンセットが面白いイコンになるように、
キャラの配分をするはずである。

同様に、重要な場面が絵になるようにしていくだろう。
本人に会うのがリアルにはどこかのスタバだったとしても、
新橋のディープな昭和風純喫茶になるはずだ。
トールラテを飲んだとしても、
フルーツポンチやコーヒーフロートを頼む場面になるだろう。
それがテーマである人の暖かさを象徴するような、
イコンになるだろう。

演出、という広い範囲の言葉でこれらを理解しないでほしい。
物語の特徴は、イコンが意図的に組み込まれていることである。
posted by おおおかとしひこ at 01:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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