2013年10月22日

デジタルは人を幸せにしない

僕の身近にいる人は、しょっちゅう聞いている僕の主張であるが、
このブログにもその一端を書いてみる。

デジタルは所詮バーチャルだ。
リアルの「代替品」に過ぎない。

映像業界では、アナログがデジタルに置き換わった感が強いが、
それオンリーではダメだ、という話をしてみたい。

まずは、編集の話。
今ではfinal cut、avidなどデジタルで編集するのが一般的だが、
最初にこれに触れて編集を学ぶと、編集が下手になると思う。

編集とは、構成と間(テンポ、リズムも含む)である。

昔は撮影フィルムを特殊なセロテープで継ぎはぎすることが編集だった。
(僕は8ミリ映画出身だ)
アナログ編集の一番の問題点は、やり直しが大変なことである。
フィルムを直接切ってセロテープでつなぐので、アンドゥが出来ない。
ゴミ箱に捨てたフィルムを探し、もう一回元に繋ぎ直す必要がある。

だから、切ると繋ぐの二つは、大変な緊張を伴う。

だから、頭の中で、死ぬほどシミュレーションするのだ。
こうつないだらどうなるか。
前の繋ぎと何が変わるか。
部分への影響。全体へ及ぼす影響。
これの代わりにあれを入れるとどうなるか。
あれの次にこれをつなぐと意味が変わるか。
あれとこれの入れ替えは、何を生み何を失うのか。

実は編集で最も大事なのは、この予測能力である。

構成力、と一般的に言われる能力の大半は、
編集においては、頭の中で試行錯誤する能力だ。
順番、つかいどころ、カットの生き死に、
微視的な部分から巨視的な構造まで、頭の中で構成を練る能力のことだ。

頭の中で、が実は重要。
なぜなら、映画の物語とは、見て聞いたものを、
頭の中で再構築して想像することが本質であるからだ。
頭の中で理解すべきものを、頭の中で試行錯誤するのだ。

デジタルの普及により、頭の中で想像するよりも複雑なものが
試行錯誤可能になってしまった。
これが間違いだ。頭の中で想像しきれないものは、
映画になっても頭の中で再構築出来ないのだ。


デジタルの本質は、全てを理解可能にし、操作可能にする、という幻想だ。
これが、編集には実によろしくない。
全ピクセルを埋めなければ仕事した気がしないから、
視野が微視的になってしまうのだ。
大きな構成や、頭の中での再構築を考える余裕がなく、
もっと細かな、微に入り細に入った複雑な部分を触っているだけになってしまう。
木を見て森を見ずの状態になりがちなのだ。

昔の編集の技法本は、映像文法の話ばかりだった。
対比的編集や、インサートによるモンタージュ、
サイズの違いや目線の違いによる意図の誘導、
反復や対称構造による意味など、
本質的構成ばかりの話をしていたと思う。
それは、切ると貼る(正確には、選ぶと捨てる)しか、
オペレーションがなかった、アナログの編集方法の本質だった。

今のデジタル編集では、なんでもできる。
レイヤーを重ねたり、ちょっとした合成をしたり、エフェクトはかけ放題。
基本エフェクトだけでも、移動、クロップ、ブラー、OL、3Dなど、
様々なものをマスターせねばならない。
見た目だけは、プロレベルのものが学生でもつくれてしまう。

だがそれによって、構成に注力すべき労力が、ほとんど他に使われてしまうのだ。
切ると貼る、選ぶと捨てると並べるだけが編集だったものが、
エフェクトをかけることが編集だと思いこんでしまうのだ。

だから、最近の若手映像作家の編集は、構成力がない。
エフェクトなしで裸で並べた時に、ものすごく弱いものしかない。
表面上の化粧はどうでもよい。
映像はモンタージュであり、構成であり、内容なのである。

それを、デジタル編集では学ぶことは出来ない。
アンドゥ出来る安心が、
切ると貼るという二大行為を、他のエフェクトと等価値におとしめる。
試してみてだめだったらやり直す、という安心が、
編集とは思考錯誤であり、事前のイマジネーションではない、という思い込みを生む。

編集は、編集室に入る頃には既に脳内で終わっていなくてはならない。
あとは、切って貼る微調整をするだけでよいはずだ。
それを考える脳を鍛える機会を、デジタル編集は奪うだろう。


デジタルの良くないところは、全てをバーチャルなデータにしてしまうことだ。
フィルムなら実物があったところを、映像データという実態のないものにしてしまう。

フィルム編集のころは、手を広げたものが、何秒何フレになるか、大体分っていた。
人の歩く一歩が、どれくらいの秒数か、フィルムの長さで手で分っていた。
だから、つないだものの長さを見れば、どういうテンポのものか、
ざっとではあるが把握できた。
映画とは時間軸を持つ芸術である。
その時間軸そのものを、手で操っていて、それは手の感覚になっていたのである。

デジタル編集は、これが出来ない。
バーチャルだから、手でつかめない。
芸術家が、それを扱う手の力を捨てれば、それはもはや芸術とは違う何かである。
バーチャル芸術といってもよいだろう。

フィルム編集を経ていないデジタル編集は、バーチャルっぽい編集のテンポだ。
頭で考えた約束事であり、肉体や現実を介していない気がする。
だから、肥大化した自意識だけが印象に残ってしまい、
実在する物語、という気がしないのだ。

アナログ編集では、強制的にブツがあったから、実在するっぽい物語に強制的になった。
デジタル編集ではブツがないから、ブツを感じさせる物語には、意識しないとならないのだ。

これはデジタル編集オンリーでは学べない。


たとえば、車の免許の取得を考えてみよう。
実際の車や道路を走ることなく、
ドライブシミュレーターだけで免許が取れるだろうか?
これと同じ事が、映像の世界で起きている。

最終的に、我々はアナログの世界、実在する世界に生きている。
ドライブシミュレーターは、バーチャルに正確にシミュレートするだろうが、
現実ではない。
デジタル編集も、バーチャルに正確にシミュレートするだろうが、
実在する映像世界には、何故かならない。


最近のハリウッド映画の編集は、なめらかすぎて、引っかかりがない。
対比や対立のような、古典的映像文法(モンタージュ技法)も使われなくなっている。
avidの普及で、アナログ編集の経験のない者が第一線に立っている気がする。
日本映画は、まだおじいちゃんたちが編集するので、
意外と編集がしっかりしているものが多かったり。


次に、脚本や企画の話。

ぼくはいまだに企画や脚本は、第一稿は手書きで書く。
wordなどで清書するのは、それが出来てからにしている。

手で書くことを重視しているからだ。
手で書く文章には肉体がある気がする。
セリフなどはとくに体を使って発するものだから、頭で考えた文章になってはいけない。
これが時間がなくてウチ文字でやると、たいへん発語しにくい文章になっていることが多い。
デジタルは、やはり頭の中だけで完結した、バーチャルな世界のような気がするのだ。

あと、モニタしか見ない、というスタイルもよくない。

絵の世界では、ときどき部屋の端まで下がって、
客観的に絵をながめて、まわりと世界と枠の中の関係を考えたりする。
そのようにして、客観性をたもち、全体の構成のバランスを修正したりする。
モニタしか見ていないと、ずっと近視眼的になる。
部屋の端まで下がってモニタを見ても、あまり効果がなさそうだ。

プリントして実在の紙にして全体を眺めるのは、
僕でなくとも皆がやる方法だろう。
なんのためにこれがあるのか。モニタだけの近視眼をやめて、全体で見る為にだ。
その思い込みが、外から見てどう見えるか、頭を冷やす為だ。
現実では、そのように見られるのである。
それが、モニタの中だけを見ていると気づかない。

このブログは、パソコンで書いているので、
あまり肉体を持たない、頭の中で構築しただけの文章が多い。
ネットとはそういうところだからいいか、と思っているが、
あとで読み返して、ちょいちょい気になることをこっそり直してもいる。



果たしてデジタルで、我々は幸せになったか?
楽にはなった。修正したり保存が楽にはなった。
それと引き換えに、
作り手の、想像力や、決断力や、構成力や、肉体を持つことを考える力や、手が覚えること、
なにより表現者としての覚悟を、我々は放棄してしまったのではないか?

あるジャンルでは、それがただしく進化の方向になっている可能性はある。
こと映画に関しては、デジタルは我々を幸せにしていない、と思う。
posted by おおおかとしひこ at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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