よく考えると当たり前なのだが、
書き手になると忘れがちになること。
映画は、主人公に起こったことや行動を二時間で描く。
二時間の事件を二時間で描けばドキュメントだ。
二時間で終わらない、数日や数ヵ月にわたる出来事
(ハリウッド映画では数日間の出来事がベストと言われている)が
二時間で描かれるということは、どこかが省略されているということだ。
(ドラマ「24」はこの常識を逆手に取って新しかった)
例えば、主人公が鼻毛を抜いたり、メールをチェックしたり、
ご飯どこへ行こうかぼーっと考えたり、洗濯物とりこむの忘れたり、
会社で暇だから誰かの所へおしゃべりに行ったり、
書類を間違えて保存し、前の段階を復元したり、
ちょっと待ってて、と言われて待つ5分間、
くよくよ思い出して後悔している時間、
あるいは寝ている最中やオナニーしてる時間などの、
日常のささいなことは、物語にはあまり出てこない。
目覚ましで起きる、歯を磨いてネクタイをしめる、電車で通勤する、
職場の皆におはようという、などは、
オープニングに近い紹介的場面で使われることもある。
植物に水をやる、朝走る、などの性格や習慣を示す場面もたまに使われる。
眠りに落ちる場面や風呂など、一人になるプライベートな時間もたまに使われる。
だが、ストーリーの進行上必要のない時間は、
物語中には出てこない。
つまり、イコンの話で書いたように、
時間的ノイズも除去されているのである。
なんのために。
本質部分を凝縮するためだ。
ホテルにチェックインする場面があったとして、
ホテルが分かりにくい場所なのでちょっと迷ったり、
フロントで手続きしたり、エレベーターの階を迷ったりする場面はない。
ホテルに着く、部屋に入る、と現実の時間はすっ飛ばして、
本題に入る。そこで何かが起こる。
ハリウッド映画の例え話だが、
映画の中では、タクシーから降りるときお釣りは貰わない。
札も数えない。ポケットから無造作に何枚か渡し、すみやかに降りるだけだ。
それは、タクシーで急いで来たから、ここから何か起こるからだ。
濡れ場でもだ。映画の中では前戯は短く、挿入はすぐである。
キスだけで暗転し、朝になるものもあるぐらいだ。
それは、二人が結ばれたことを、ノイズを除去して表現しているのだ。
前戯が上手いとか下手とか、そういうことは本筋に関係ないのだ。
(関係があるようなラブストーリーなら、丹念に描かれるかも)
現実ではシャツのボタンが取れていたり、しわくちゃだったり、
髪に寝癖がついてたり、髭をそりわすれたりするが、
映画の中では、パリッとした服を着て、髪はきちんとして、
メイクもバッチリで脂も浮いていない。
それは、そのことがストーリーに関係していない、ということなのだ。
金田一耕助が寝癖の頭をボリボリかいてフケを飛ばす時は、
事件が進展するときだけだ。
ストーリーの他の場面では、たとえ痒くても頭はかかない。
刑事コロンボは、他の場面では(例え言っていても)カミさんの事を話さない。
話すのは、犯人を誘導尋問するときだけだ。
あなたの書くシーン、構成、セリフ、動作、セリフの受け答えに、
無駄はないだろうか。
全ての要素は、ストーリーに関わる事か、チェックしてみるとよい。
逆に言うと、映画には、あとで使われない要素があってはならない。
全てが、あとで使われる場面だ。
もし設定だけをしている所があったら、ストーリーの進行と重ね合わせてみよう。
カミさんの話をただするのでは無駄である。
犯人の前でするから進行するのである。
リアルな会話の受け答えは、書いてて楽しいものだが、
リアルな会話の多くには、無駄が多い。
ストーリー進行上絶対必要なセリフは何か、
赤線でも引いてみるとよい。
ほとんどが白いなら、それは面白いだけのお喋り
(バラエティー番組のような)で、話が進んでいない。
時間軸は進んでも、進展がない。
逆に、赤線だけを残せば、そのシーンは最低事足りる。
残りの部分を、豊かに膨らませていると見るか停滞と見るかである。
作者は前者と思い、観客は後者だと思う。
わずか二行とかなら、そのセリフを他のシーンで言わせて、
このシーン自体をなくしてしまう手だってある。
そうやって、凝縮していく。
赤線が引かれていないものは、ノイズだったのだ。
主人公がただ一人で悩むシーンは、最もやっちゃいかんシーンだ。
セリフがないからなに考えてるか分からないし、
話が進まないからだ。
ドラマは心の中の葛藤ではない。
他人との間のコンフリクトを、絵とセリフと芝居で進める、
三人称文学である。
心の中の葛藤は、セリフや決断の端々ににじみ出るように書くのだ。
アバンギャルドの天才、赤塚不二夫の天才バカボンに、
凄い回があった。
「今日は一切の手抜きをしないのだ!」とパパが宣言する。
パパが部屋でぼーっとすごす10分ぐらいを丹念に描くのだ。
鼻毛を抜いたり、爪を切ったり、時計を何度か見たり、
テレビをつけたりチャンネルを変えたりするだけを、
丹念に描くのだ。
物語には省略がある、という常識を逆手に取って、
何も起こらない時間を描いて笑いにする、ただ者ではない感覚。
逆説的に、物語とは何かが起こることであり、
起こっていない時間は省略されていることの証明になっている。
流石にこの回はアニメ化されていないと思う。
30分何もしなかったら、それはそれは詰まらないだろう。
漫画だから許された思考実験かも知れない。
逆に、省略を上手く使える人は、書き手として優れている。
皆まで言わずとも把握出来るようにする省略、
意図的に描写しないことで気にさせる省略、
意識に上らせないことでミスリードする省略、
ラストの切れ具合でテーマを暗示する省略、
本当に言いたいことを無言にこめる、
それらが使いこなせて、はじめて一流と呼べるストーリーテラーであろう。
描写と省略は、観客とのコミュニケーションである。
一方的に物言いがしたい書き手は、それに気づかない。
2013年10月20日
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