我々の命は、いつか終わる。
どんなに長い映画でも、数時間で終わる。
どんなに人気ドラマでも、最終回が来る。
笑っていいともだっていつか終わるし、タモリだっていつか死ぬ。
サザエさんもドラえもんも、いつか最終回がある。
地球も太陽も、いつか死ぬ日がくる。
宇宙は熱的死に向かっている説と、再収縮する説があるが、
何億年かそれ以上先、宇宙は死ぬ。
同様に、時間軸を持つ物語や音楽や料理には、
終わりがある。
あなたの書く物語も、僕の書く話も、必ず終わりがある。
終わるために書く、という一種の逆説で、書くという行為を見てみよう。
脚本の初心者で、一番ありがちなことは、
「最後まで書けない」ということだ。
最初は書ける。その続きもまあ書ける。
だが、シーンを増して行くと、どこかで挫折する。
どこかで初期衝動が途切れて、内容が詰まらない気がしてくる。
書けば書くほど迷路にはまり、
書く内容のうち10割面白かったものが、7割になり5割になり、
2割になり、ついには書くこと全てが詰まらないように思えてくる。
最初以上に面白さのレベルを上げていきたいのに、
書けば書くほどレベルが下がって行く。
次第に嫌になり、自信を失う。
あなたはおそらく、ミッドポイントにたどり着いていない。
風呂敷をたたむどころか、広げることも出来なかった。
これを防ぐには、
この話は書き続ける為に書くのではなく、
終わる為に書いている、と思うことだ。
どう終わるかを考えよう。
出来うるなら、書き始めたときの衝動が持っていたテーマ性を思い出し、
その方向で考えうる、鮮烈な解決シーンを先に考えよう。
それである程度のテーマが決まる筈だ。
初心者は、このテーマが陳腐だと書く気を失う。
俺の書いているものは、もっと凄いテーマだから、
こんなもんじゃないぞと。
俺はこんなもんじゃないぞと。
そこまで構えないことだ。
あなたの初期衝動から導かれる物語の結末は、
大体その程度だ。
それ以上に高尚なテーマにしたいなら、次の物語でやろう。
まずは、「この程度」の話を仕上げよう。
あなたがこれまで書いた、どんな物語より素晴らしいものを、
あなたがこれまで見た、どんな物語より素晴らしいものを、
毎回書く必要はない。
どうせ、あなたは今後名作を何十本もものにする。
その初期作品なんて、のちの大作に比べれば、
まあ普通で、どこかがキラリと光るレベルでよいのだ。
最初から世界を変える大名作は生まれない。
名作とは、職人レベルの技巧と、天才的な閃きがいくつか必要な、
何十本かに一本のものだ。
あなたの書く物語がその一本である確率は、今のところゼロだ。
何故なら、まだそれが終わっていないからだ。
まずは、終わらせよう。
終わりを書いてみよう。
テーマを大体決めよう。
この話は、そういうまあまあのテーマで終わる話だ。
どうせ脚本は、何回もリライトするのだ。
その時に更に高みを目指せばよい。そのベースをつくるには、
終らせないと話にならない。
そうやって腹を決めると、不思議と全体が見えてくる。
終わり方を決めれば、逆算でクライマックスまでにやらなければいけないことが、
いくつかリストアップされてくる。
説明しておかなければいけない情報や、
前ふりや、必要な段取りが見えてくる。
それを、挫折したあたりや、その少し前から書き足して行くとよい。
もしその前にも足さなければいけないのなら、
そこまで戻って書き直しはじめるとよい。
思ったより短い話になりそうでも構わない。
リライトはあとでやる。
思ったより長い話になりそうなら、途中ではしょることも考える。
リライトはあとでやる。
やらなければいけないことが見えているから、
挫折した時ほど苦しくはない。
いずれ自然なセリフや展開を思いついて、
ノリは軌道に乗るだろう。
またどこかで挫折しないとも限らないが、
対処の仕方は同じだ。
終わり方を思い出して、それに必要なことをリストアップすればよい。
物語には、流れや勢いというものがある。
それは、作者のノリもそうだが、
ストーリーがある方向へ向かっている、という勢いのことである。
どこへ向かっていいか分からない、自由度の高い状態のときに、
作者はどうしていいか分からなくなる。
だが、やらなければいけない段取りが決まっていれば、
次の小目標は明らかだ。
話がそこへ向かうように、話題やセリフや場所を、
強引にでも向かわせればよい。
(リライト段階で自然になるようにすればよい。
今は終わりまで書くのがミッションと思うこと)
脚本は、書道や水彩画のような、一発勝負ではなく、
油絵のような、何度も重ね塗りしていくものをイメージするとよい。
第一稿で完成品ではない。
第一稿は、木炭デッサンが大体出来ていればそれでいい、
と考える。
脚本には、何ヵ所か、必ずどこへ向かっていいか分からない場所がある。
世間の映画を見ていても、それは明らかにわかる。
大体、集中力が途切れて退屈する箇所である。
プロの作品ですらそうだから、まあ心配し過ぎることはない。
それより大事なことは、その数ヶ所以外は、
とてつもなく勢いや流れがあることだ。
何ヵ所か訪れるそのようなポイントを、
強引にでもクリアすれば、
書いても書いても勢いが途切れないようになってくる。
物語が後半戦に入った証拠だ。
あとは決めた段取りを、段取りくさく見えないように、
人物の自然な勢いで、書いていくだけでよい。
キャラが勝手に動き出すのは、大抵この辺りだ。
当初決めていた終わり方より、更に良い終わり方を思いつくのも、
大抵この辺りだ。
あとは「終わり」に向かって一直線に書いていこう。
人物は生き生きとし始める。
使命を感じ、大詰めやクライマックスに向けて、
緊張が高まってゆく。
当初考えていたよりは、いい終わり方に、大抵たどり着ける。
人間の認識力というのは不思議なもので、
全体が見えないうちは不安でしょうがなく、時にイライラするが、
全体の大枠が見えてくると、全体と部分の関係を考えはじめ、
あまつさえ整理する能力があるのだ。
アトラクションの待ち時間表示がよい例だ。
何分待ちか分からないと不安だが、
あと15分と具体的に言われれば、実際には20分待たされたとしても、
15分の使い方を自分の中で考えるようになる。
近視眼的な視野に、全体的視野が加わるのである。
箱庭療法も、ひとつにはこの力を利用していると思う。
物語は、終わる為に書く。
何故なら、終わりこそがテーマだからだ。
あなたはオープニングや途中のターニングポイントや焦点を
書きたい訳ではない。
物語全体を書きたい筈だ。
途中のシーンはあくまで途中である。
終わりこそが、物語なのである。
そのように書けていないなら、
あなたの物語は、テーマがないか、終わりどころを間違えている。
どんな映画も、人気ドラマも、いつか終わる。
テーマが定着し、一本の単位になる。
終わりを見て、はじめて今までのものがどんな意味だったのかが、
最終的に決まる。
決まることが怖くて、書けないだけだ。
決める為に書くのに。
一本だけ書いて終わりの人生を過ごす予定でないなら、
何回も終わりを書こう。
何本もテーマを定着させよう。
最初はどこかで聞いたようなテーマしか書けないだろう。
だが慣れてくるに従って、あなたにしか書けないテーマを
思いつくようになる。
名作を目指すのは、その時である。
あなたの人生が終わるとき、あなたの人生が決まる。
物語も同じだ。人生と違うのは、何本も書いていい、ということだ。
あなたが死んでも、素晴らしい終わりの物語は、永遠に残るかも知れない。
宇宙が死んでも、価値があるなら別の宇宙へ移行されるかも知れない。
それも何も、終わり方が決めるのである。
2013年10月21日
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