2013年10月21日

物語とは、「終わり」を書くことだ

我々の命は、いつか終わる。
どんなに長い映画でも、数時間で終わる。
どんなに人気ドラマでも、最終回が来る。
笑っていいともだっていつか終わるし、タモリだっていつか死ぬ。
サザエさんもドラえもんも、いつか最終回がある。
地球も太陽も、いつか死ぬ日がくる。
宇宙は熱的死に向かっている説と、再収縮する説があるが、
何億年かそれ以上先、宇宙は死ぬ。

同様に、時間軸を持つ物語や音楽や料理には、
終わりがある。
あなたの書く物語も、僕の書く話も、必ず終わりがある。
終わるために書く、という一種の逆説で、書くという行為を見てみよう。

脚本の初心者で、一番ありがちなことは、
「最後まで書けない」ということだ。
最初は書ける。その続きもまあ書ける。
だが、シーンを増して行くと、どこかで挫折する。
どこかで初期衝動が途切れて、内容が詰まらない気がしてくる。
書けば書くほど迷路にはまり、
書く内容のうち10割面白かったものが、7割になり5割になり、
2割になり、ついには書くこと全てが詰まらないように思えてくる。
最初以上に面白さのレベルを上げていきたいのに、
書けば書くほどレベルが下がって行く。
次第に嫌になり、自信を失う。

あなたはおそらく、ミッドポイントにたどり着いていない。
風呂敷をたたむどころか、広げることも出来なかった。

これを防ぐには、
この話は書き続ける為に書くのではなく、
終わる為に書いている、と思うことだ。


どう終わるかを考えよう。
出来うるなら、書き始めたときの衝動が持っていたテーマ性を思い出し、
その方向で考えうる、鮮烈な解決シーンを先に考えよう。
それである程度のテーマが決まる筈だ。

初心者は、このテーマが陳腐だと書く気を失う。
俺の書いているものは、もっと凄いテーマだから、
こんなもんじゃないぞと。
俺はこんなもんじゃないぞと。

そこまで構えないことだ。
あなたの初期衝動から導かれる物語の結末は、
大体その程度だ。
それ以上に高尚なテーマにしたいなら、次の物語でやろう。
まずは、「この程度」の話を仕上げよう。
あなたがこれまで書いた、どんな物語より素晴らしいものを、
あなたがこれまで見た、どんな物語より素晴らしいものを、
毎回書く必要はない。

どうせ、あなたは今後名作を何十本もものにする。
その初期作品なんて、のちの大作に比べれば、
まあ普通で、どこかがキラリと光るレベルでよいのだ。
最初から世界を変える大名作は生まれない。
名作とは、職人レベルの技巧と、天才的な閃きがいくつか必要な、
何十本かに一本のものだ。
あなたの書く物語がその一本である確率は、今のところゼロだ。
何故なら、まだそれが終わっていないからだ。

まずは、終わらせよう。
終わりを書いてみよう。
テーマを大体決めよう。
この話は、そういうまあまあのテーマで終わる話だ。
どうせ脚本は、何回もリライトするのだ。
その時に更に高みを目指せばよい。そのベースをつくるには、
終らせないと話にならない。

そうやって腹を決めると、不思議と全体が見えてくる。

終わり方を決めれば、逆算でクライマックスまでにやらなければいけないことが、
いくつかリストアップされてくる。
説明しておかなければいけない情報や、
前ふりや、必要な段取りが見えてくる。
それを、挫折したあたりや、その少し前から書き足して行くとよい。

もしその前にも足さなければいけないのなら、
そこまで戻って書き直しはじめるとよい。
思ったより短い話になりそうでも構わない。
リライトはあとでやる。
思ったより長い話になりそうなら、途中ではしょることも考える。
リライトはあとでやる。

やらなければいけないことが見えているから、
挫折した時ほど苦しくはない。
いずれ自然なセリフや展開を思いついて、
ノリは軌道に乗るだろう。

またどこかで挫折しないとも限らないが、
対処の仕方は同じだ。
終わり方を思い出して、それに必要なことをリストアップすればよい。

物語には、流れや勢いというものがある。

それは、作者のノリもそうだが、
ストーリーがある方向へ向かっている、という勢いのことである。
どこへ向かっていいか分からない、自由度の高い状態のときに、
作者はどうしていいか分からなくなる。
だが、やらなければいけない段取りが決まっていれば、
次の小目標は明らかだ。
話がそこへ向かうように、話題やセリフや場所を、
強引にでも向かわせればよい。
(リライト段階で自然になるようにすればよい。
今は終わりまで書くのがミッションと思うこと)

脚本は、書道や水彩画のような、一発勝負ではなく、
油絵のような、何度も重ね塗りしていくものをイメージするとよい。
第一稿で完成品ではない。
第一稿は、木炭デッサンが大体出来ていればそれでいい、
と考える。


脚本には、何ヵ所か、必ずどこへ向かっていいか分からない場所がある。
世間の映画を見ていても、それは明らかにわかる。
大体、集中力が途切れて退屈する箇所である。
プロの作品ですらそうだから、まあ心配し過ぎることはない。
それより大事なことは、その数ヶ所以外は、
とてつもなく勢いや流れがあることだ。

何ヵ所か訪れるそのようなポイントを、
強引にでもクリアすれば、
書いても書いても勢いが途切れないようになってくる。
物語が後半戦に入った証拠だ。
あとは決めた段取りを、段取りくさく見えないように、
人物の自然な勢いで、書いていくだけでよい。
キャラが勝手に動き出すのは、大抵この辺りだ。

当初決めていた終わり方より、更に良い終わり方を思いつくのも、
大抵この辺りだ。

あとは「終わり」に向かって一直線に書いていこう。
人物は生き生きとし始める。
使命を感じ、大詰めやクライマックスに向けて、
緊張が高まってゆく。

当初考えていたよりは、いい終わり方に、大抵たどり着ける。


人間の認識力というのは不思議なもので、
全体が見えないうちは不安でしょうがなく、時にイライラするが、
全体の大枠が見えてくると、全体と部分の関係を考えはじめ、
あまつさえ整理する能力があるのだ。

アトラクションの待ち時間表示がよい例だ。
何分待ちか分からないと不安だが、
あと15分と具体的に言われれば、実際には20分待たされたとしても、
15分の使い方を自分の中で考えるようになる。

近視眼的な視野に、全体的視野が加わるのである。

箱庭療法も、ひとつにはこの力を利用していると思う。


物語は、終わる為に書く。


何故なら、終わりこそがテーマだからだ。
あなたはオープニングや途中のターニングポイントや焦点を
書きたい訳ではない。
物語全体を書きたい筈だ。
途中のシーンはあくまで途中である。
終わりこそが、物語なのである。

そのように書けていないなら、
あなたの物語は、テーマがないか、終わりどころを間違えている。


どんな映画も、人気ドラマも、いつか終わる。
テーマが定着し、一本の単位になる。
終わりを見て、はじめて今までのものがどんな意味だったのかが、
最終的に決まる。

決まることが怖くて、書けないだけだ。
決める為に書くのに。

一本だけ書いて終わりの人生を過ごす予定でないなら、
何回も終わりを書こう。
何本もテーマを定着させよう。
最初はどこかで聞いたようなテーマしか書けないだろう。
だが慣れてくるに従って、あなたにしか書けないテーマを
思いつくようになる。
名作を目指すのは、その時である。


あなたの人生が終わるとき、あなたの人生が決まる。
物語も同じだ。人生と違うのは、何本も書いていい、ということだ。
あなたが死んでも、素晴らしい終わりの物語は、永遠に残るかも知れない。
宇宙が死んでも、価値があるなら別の宇宙へ移行されるかも知れない。
それも何も、終わり方が決めるのである。
posted by おおおかとしひこ at 01:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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