僕は80年代に多感な時代を過ごしたが、
あの時代は、意味を解体することが流行っていた。
吉田戦車は「染るんです。」で、鴻上尚史は第三舞台で。
とんねるずは楽屋落ちで、北条司や唐沢なをきはコマの端に自分ツッコミを書くメタで。
サブカルが花開いたのは、本来の「意味」の世界、カルチャーへの反逆だった。
ヤオイ(山無し落ち無し意味無し)は、ある種の先端だった。
現在、それは最先端でも異色でもない。
「シュール」というただのジャンルになりつつある。
かつての意味の解体とは、先行する文化へのアンチテーゼであった。
意味やテーマなどダサイ、シュールこそ新しいという潮流だった。
意味を解体し、要するにそこに表現する場所をつくろうとしたのだ。
物語にはテーマがあり、その意味のために全てが配置されている、
という伝統的価値観は、ただ「そうでなくすること」に価値が持たれた。
ロックが反逆であるように、シュールとは、伝統的物語論への反逆であった。
それは、もはや新しい意味は構築できない、という無意識の壁にぶちあたったことなのだ。
80年代は総中流意識が浸透し、永遠に安定した日常が続く幻想のあった時代である。
だから、現状否定は、安定をぶち壊すしかなかった。
ある者は「超能力」で(大友克洋、まつもと泉、平井和正をはじめ、
この時代の超能力もののなんと多いことよ。岡崎京子すら、「女」という異能の発見だ)、
ある者は「意味の解体」で。
そこで何が起こったかというと、伝統的話法の伝承の途切れである。
壊したら何か生まれたかというと、瓦礫しか残らなかったのだ。
壊すことが創造である、と信じる人達は、壊すことしかしないからだ。
松本人志の例をあげよう。
「大日本人」は、ヒーローものと日本の因習的なもの、ふたつの意味の解体からはじめる。
ヒーローって何なんすかね、こんな風習に意味なんてあるんすかね、
という態度で。
それがあのラストで、これまでの意味を全部ひっくり返し、さらに意味は解体される。
解体の解体、メタ解体とでも言えばよいのだろうか。
松本は、意味の解体の時代の人であり、それが創造だと思っている節がある。
だから、もっとすごい事をやるには、解体を解体するしかないのである。
僕は公開数年後DVDで見たが、「古い」と思った。
意味を解体するシュールは、単純にもう古くなっていると感じた。
それが新しく、価値があり、最先端だった時代は終わったのだ。
彼の初期の漫才はそのような、尖ったものだった。
今でも「4時ですよ〜だ」でリアルタイムで見た記憶が鮮明だ。
クイズ番組の形式で、松本が問題を出し、浜田が答えようと構える。
クイズです。さて、どうでしょう?
どうでしょうてなんや?
どうでしょう?
何がやねん!
さて、どうでしょう?
だから何がやねん! ぼちぼちちゃうんか!
惜しい!
何がやねん!
ここでジャンプアップクイーズ!
意味分らんわ!
のようなやり取りだった。ディテールは記憶なので違うかも。
「意味分らん」というのが、新しく面白かったのだ。
従来のクイズ番組の文法、「分りそうで分らない問題を皆で考える」という段取りを、
全く分らない問題をいきなり出すという方法で、意味を消失させるのである。
以降は、クイズ番組を見るたびに、このやりとり以上の面白さを感じられなくなる。
つまり、クイズ番組は、この漫才によって意味を失ったのだ。
ダウンタウンは、そのような意味の破壊行為の急先鋒だった。
着眼点、壊し方、あとに残るどうしていいか分からない感じ、全てに魅力があった。
それは「ごっつええ感じ」のフリートークや「HEY HEY HEY」のトークの一部に
片鱗を見ることが出来た。
僕が好きな意味の解体は、
「これまで数多くの自殺を止めて来た名刑事松本さん。
屋上で今まさに飛び降りようとしている、失恋した女子高生の止め方を教えてください」
のフリに、
「俺が先じゃーって、彼女をどけて飛び降りる」と答えたやつである。
天才と狂気を感じたものだ。
ところがだ。
もうそんなものは、一周して古くなっている気がするのである。
シュールは最先端ではなく、要素やスパイスの一種となっている。
とくに珍しくも新しくもない。
それは、解体すべきものを、ほとんど解体してしまったからではないだろうか。
ロックは何かに反抗して、その後どうなるのだろうか。
この支配から卒業して、その後どうするのだろうか。
反抗そのものがアイデンティティである場合、反抗する対象、
親や支配者やシステムを維持する者が解体されれば、どうなるのか。
引きこもりの親が死んだら、彼らはどうするのだろうか。
結局、そのものがなくなるか、また新しいものをつくるしかないのではないだろうか。
おはなしには、意味があってほしい。
物語には、無駄のないいい配置があってほしい。
だが、その物語る才能のある人は、思ったほど出て来ていない。
今日本の文化は、そのような分岐点にいる気がする。
結局、人は意味がないものには長時間耐えられない。
意味の解体後に残った実感とは、あたりまえのことだった。
「R-100」はどうなんすかね。
「しんぼる」以降見てないけど、「MHK」があまりにも詰まらなかったので、
もう松本さんには期待してないですが。
もはや、解体してる場合ではない。
新しい意味を、新しい価値を、我々書き手は常に見出し、更新していかなくてはならない。
しかも独りよがりでない、多くの人に共有できる面白い価値を。
しかも価値の消費は、ネットの広がりで極端になった。
難しい時代である。
意味を見出すには、「面白い話」を思いつき、
それが今どのような意味があるかを考察するしかないと思う。
「風魔2」で言えば、世界を救うことと風魔総帥を継ぐこと、という話だが、
今それを語るのは、「一族を背負う責任」という古臭いが新しいことだ。
震災や不況以後の今の日本の状況で新しく見える、「次代のこと」を扱う、
という意味を見いだせると思う。
と、いうことで、(風魔とは関係ないですが)新しい話を準備中です。
いずれ皆さんのお目にかかれるような場で、発表できるようにがんばります。
今語る意味の、ある話だと思います。
2013年10月21日
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