2013年10月21日

意味は解体されたか

僕は80年代に多感な時代を過ごしたが、
あの時代は、意味を解体することが流行っていた。
吉田戦車は「染るんです。」で、鴻上尚史は第三舞台で。
とんねるずは楽屋落ちで、北条司や唐沢なをきはコマの端に自分ツッコミを書くメタで。
サブカルが花開いたのは、本来の「意味」の世界、カルチャーへの反逆だった。
ヤオイ(山無し落ち無し意味無し)は、ある種の先端だった。

現在、それは最先端でも異色でもない。
「シュール」というただのジャンルになりつつある。

かつての意味の解体とは、先行する文化へのアンチテーゼであった。
意味やテーマなどダサイ、シュールこそ新しいという潮流だった。
意味を解体し、要するにそこに表現する場所をつくろうとしたのだ。

物語にはテーマがあり、その意味のために全てが配置されている、
という伝統的価値観は、ただ「そうでなくすること」に価値が持たれた。

ロックが反逆であるように、シュールとは、伝統的物語論への反逆であった。
それは、もはや新しい意味は構築できない、という無意識の壁にぶちあたったことなのだ。
80年代は総中流意識が浸透し、永遠に安定した日常が続く幻想のあった時代である。
だから、現状否定は、安定をぶち壊すしかなかった。
ある者は「超能力」で(大友克洋、まつもと泉、平井和正をはじめ、
この時代の超能力もののなんと多いことよ。岡崎京子すら、「女」という異能の発見だ)、
ある者は「意味の解体」で。


そこで何が起こったかというと、伝統的話法の伝承の途切れである。
壊したら何か生まれたかというと、瓦礫しか残らなかったのだ。
壊すことが創造である、と信じる人達は、壊すことしかしないからだ。


松本人志の例をあげよう。
「大日本人」は、ヒーローものと日本の因習的なもの、ふたつの意味の解体からはじめる。
ヒーローって何なんすかね、こんな風習に意味なんてあるんすかね、
という態度で。
それがあのラストで、これまでの意味を全部ひっくり返し、さらに意味は解体される。
解体の解体、メタ解体とでも言えばよいのだろうか。
松本は、意味の解体の時代の人であり、それが創造だと思っている節がある。
だから、もっとすごい事をやるには、解体を解体するしかないのである。

僕は公開数年後DVDで見たが、「古い」と思った。
意味を解体するシュールは、単純にもう古くなっていると感じた。
それが新しく、価値があり、最先端だった時代は終わったのだ。

彼の初期の漫才はそのような、尖ったものだった。
今でも「4時ですよ〜だ」でリアルタイムで見た記憶が鮮明だ。
クイズ番組の形式で、松本が問題を出し、浜田が答えようと構える。
クイズです。さて、どうでしょう?
どうでしょうてなんや?
どうでしょう?
何がやねん!
さて、どうでしょう?
だから何がやねん! ぼちぼちちゃうんか!
惜しい!
何がやねん!
ここでジャンプアップクイーズ!
意味分らんわ!

のようなやり取りだった。ディテールは記憶なので違うかも。
「意味分らん」というのが、新しく面白かったのだ。
従来のクイズ番組の文法、「分りそうで分らない問題を皆で考える」という段取りを、
全く分らない問題をいきなり出すという方法で、意味を消失させるのである。
以降は、クイズ番組を見るたびに、このやりとり以上の面白さを感じられなくなる。
つまり、クイズ番組は、この漫才によって意味を失ったのだ。

ダウンタウンは、そのような意味の破壊行為の急先鋒だった。
着眼点、壊し方、あとに残るどうしていいか分からない感じ、全てに魅力があった。
それは「ごっつええ感じ」のフリートークや「HEY HEY HEY」のトークの一部に
片鱗を見ることが出来た。
僕が好きな意味の解体は、
「これまで数多くの自殺を止めて来た名刑事松本さん。
屋上で今まさに飛び降りようとしている、失恋した女子高生の止め方を教えてください」
のフリに、
「俺が先じゃーって、彼女をどけて飛び降りる」と答えたやつである。
天才と狂気を感じたものだ。

ところがだ。
もうそんなものは、一周して古くなっている気がするのである。

シュールは最先端ではなく、要素やスパイスの一種となっている。
とくに珍しくも新しくもない。
それは、解体すべきものを、ほとんど解体してしまったからではないだろうか。
ロックは何かに反抗して、その後どうなるのだろうか。
この支配から卒業して、その後どうするのだろうか。
反抗そのものがアイデンティティである場合、反抗する対象、
親や支配者やシステムを維持する者が解体されれば、どうなるのか。
引きこもりの親が死んだら、彼らはどうするのだろうか。

結局、そのものがなくなるか、また新しいものをつくるしかないのではないだろうか。
おはなしには、意味があってほしい。
物語には、無駄のないいい配置があってほしい。
だが、その物語る才能のある人は、思ったほど出て来ていない。
今日本の文化は、そのような分岐点にいる気がする。

結局、人は意味がないものには長時間耐えられない。
意味の解体後に残った実感とは、あたりまえのことだった。

「R-100」はどうなんすかね。
「しんぼる」以降見てないけど、「MHK」があまりにも詰まらなかったので、
もう松本さんには期待してないですが。


もはや、解体してる場合ではない。
新しい意味を、新しい価値を、我々書き手は常に見出し、更新していかなくてはならない。
しかも独りよがりでない、多くの人に共有できる面白い価値を。
しかも価値の消費は、ネットの広がりで極端になった。
難しい時代である。



意味を見出すには、「面白い話」を思いつき、
それが今どのような意味があるかを考察するしかないと思う。

「風魔2」で言えば、世界を救うことと風魔総帥を継ぐこと、という話だが、
今それを語るのは、「一族を背負う責任」という古臭いが新しいことだ。
震災や不況以後の今の日本の状況で新しく見える、「次代のこと」を扱う、
という意味を見いだせると思う。


と、いうことで、(風魔とは関係ないですが)新しい話を準備中です。
いずれ皆さんのお目にかかれるような場で、発表できるようにがんばります。
今語る意味の、ある話だと思います。
posted by おおおかとしひこ at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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