2013年10月21日

物語とは、夢に意味を見出すこと

色々な「物語とは」について書いているが、
このような見方も出来るよ、という話。

夢は、突拍子もない。奇想天外である。
現実離れし、ものすごいことが起こり、
感情が十二分に振れる。

物語は夢の一種だ。
おはなしを聞いた人や、映画を見る人は、
文字や声や画面の中以上に、「自分の頭の中で」物語全体や端々を想像する。

映画が受動的メディアだと思うのは素人だ。
いい映画には、想像の余地がある。
見終わったあとだけでなく、見ている最中もだ。

単純な例では、「犯人は誰か」「あの意図はなにか」「彼女は彼を愛するのか」などを想像する。
そしてそれらが辻褄が合うかどうかを常にチェックし、
物語の進行とともに、頭の中の想像を「更新」していくのである。
予想や期待が、これに含まれる。
この物語はどう決着をつけるのだろう、という期待と不安と想像もそのひとつだ。
(これを理論的な道具にしたのが、図式化だ)


物語とは、頭の中の想像なのである。
それは、ほぼ夢と同じだ。

夢は、現実ではない。
むしろ現実からはるか遠くの奇想天外な世界だ。
だから物語も、現実ではない、はるか遠くの世界が面白い。
剣と魔法の世界や、幽霊話や、外国の話や、SFが面白い。
現実を舞台にしていても、普段あり得ないことが起こるから面白い。
なるべく奇想天外で、なるべく現実をぶちこわすほうが面白い。

だから、発想の初期には、なるべく現実と遠くのことを思いつくのが楽しい。
そもそも妄想とは、現実にありえないこと、ありえないがあると面白いことを考えるのが面白い。
そういうのが得意な人が、おそらく書き手側にまわる。

が、夢は途方もなく辻褄が合わない。
合わないから夢なのだが、
それに辻褄を合わせたものが、物語なのである。


物語の中では、全てのことには理由があり、
一見謎のことも最後には全て明かされる。
その背後にあった一本の矛盾のない筋に、感心する。見事にだまされたぜ、と。

あとで使われない要素や場面は、物語にはない。
全てが伏線である。

それどころか、その物語の存在そのものが我々にどんな意味をもたらすか(テーマ)、
ということまで考えられている。

我々は分らないものに意味を求める。
夢占いや正夢や予知夢などのジャンルがあるのも、
意味のわからないものに意味を見出したいからだ。


夢のありえない夢想と、
それらをつなぐ一本の筋。

物語とは、その両輪がそろっていなければならない。
現実と近すぎて、あまり現実と変わらない詰まらない夢想より、
遠くに想像の翼を広げた、奇想天外が面白い。
矛盾だらけだったり、意味不明なものが残ったままより、全てに理由がある、
見事な筋立てがあったほうが面白い。
(矛盾があったり謎が残るのは、出来ていない物語だ)
丹念に丹念に考えられたものだけが、全てに理由を与え、それらの存在意義をつくる。

出来ていない物語では、頻繁に、「なんのためにこれがあるの?」が起こる。
「絵的には面白いが、何のためにあるのかが分らないもの」が増える。
逆に、一見不可思議なものが、そういう意味があったのか!と劇中で分ると、
なんときちんと考えられていたのだろう、と観客は作者を信用し、
それ以上のわくわくを望む。
もっとひっくり返してくれと望む。


夢みたいな新しい設定を考えつくこと、
そしてそのすべてに矛盾しない筋の通る理由をつくること、
両方ともが出来るだろうか。
両方出来ないと、物語は決して面白くならない。
posted by おおおかとしひこ at 20:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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