色々な「物語とは」について書いているが、
このような見方も出来るよ、という話。
夢は、突拍子もない。奇想天外である。
現実離れし、ものすごいことが起こり、
感情が十二分に振れる。
物語は夢の一種だ。
おはなしを聞いた人や、映画を見る人は、
文字や声や画面の中以上に、「自分の頭の中で」物語全体や端々を想像する。
映画が受動的メディアだと思うのは素人だ。
いい映画には、想像の余地がある。
見終わったあとだけでなく、見ている最中もだ。
単純な例では、「犯人は誰か」「あの意図はなにか」「彼女は彼を愛するのか」などを想像する。
そしてそれらが辻褄が合うかどうかを常にチェックし、
物語の進行とともに、頭の中の想像を「更新」していくのである。
予想や期待が、これに含まれる。
この物語はどう決着をつけるのだろう、という期待と不安と想像もそのひとつだ。
(これを理論的な道具にしたのが、図式化だ)
物語とは、頭の中の想像なのである。
それは、ほぼ夢と同じだ。
夢は、現実ではない。
むしろ現実からはるか遠くの奇想天外な世界だ。
だから物語も、現実ではない、はるか遠くの世界が面白い。
剣と魔法の世界や、幽霊話や、外国の話や、SFが面白い。
現実を舞台にしていても、普段あり得ないことが起こるから面白い。
なるべく奇想天外で、なるべく現実をぶちこわすほうが面白い。
だから、発想の初期には、なるべく現実と遠くのことを思いつくのが楽しい。
そもそも妄想とは、現実にありえないこと、ありえないがあると面白いことを考えるのが面白い。
そういうのが得意な人が、おそらく書き手側にまわる。
が、夢は途方もなく辻褄が合わない。
合わないから夢なのだが、
それに辻褄を合わせたものが、物語なのである。
物語の中では、全てのことには理由があり、
一見謎のことも最後には全て明かされる。
その背後にあった一本の矛盾のない筋に、感心する。見事にだまされたぜ、と。
あとで使われない要素や場面は、物語にはない。
全てが伏線である。
それどころか、その物語の存在そのものが我々にどんな意味をもたらすか(テーマ)、
ということまで考えられている。
我々は分らないものに意味を求める。
夢占いや正夢や予知夢などのジャンルがあるのも、
意味のわからないものに意味を見出したいからだ。
夢のありえない夢想と、
それらをつなぐ一本の筋。
物語とは、その両輪がそろっていなければならない。
現実と近すぎて、あまり現実と変わらない詰まらない夢想より、
遠くに想像の翼を広げた、奇想天外が面白い。
矛盾だらけだったり、意味不明なものが残ったままより、全てに理由がある、
見事な筋立てがあったほうが面白い。
(矛盾があったり謎が残るのは、出来ていない物語だ)
丹念に丹念に考えられたものだけが、全てに理由を与え、それらの存在意義をつくる。
出来ていない物語では、頻繁に、「なんのためにこれがあるの?」が起こる。
「絵的には面白いが、何のためにあるのかが分らないもの」が増える。
逆に、一見不可思議なものが、そういう意味があったのか!と劇中で分ると、
なんときちんと考えられていたのだろう、と観客は作者を信用し、
それ以上のわくわくを望む。
もっとひっくり返してくれと望む。
夢みたいな新しい設定を考えつくこと、
そしてそのすべてに矛盾しない筋の通る理由をつくること、
両方ともが出来るだろうか。
両方出来ないと、物語は決して面白くならない。
2013年10月21日
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