初心者にありがちな誤解。
悲しいシーンを書けば、見る側がその通りに悲しんでくれると思い込む。
楽しいシーンを書けば、その通りに楽しんでくれると思い込む。
きちんと説明すれば、その通りに理解してくれると思い込む。
たとえばただ笑顔だけのCMを見て、我々は楽しくならない。
ただ説明されるだけのCMを見て、我々はその通りの理屈をマスターしない。
見る側にとっての当たり前の常識なのに、我々は表現側に立つと、
いとも簡単に忘れてしまう。
表現は、100%受け入れてくれる筈ない、ということを。
表現は、理解する前に、興味を持ってもらわなければならないのに。
興味のない人しか対象にしないマーケティングは、
あまりに偏狭であり、表現に対する無知である。
よい表現には、反対のベクトルを持つ人すら巻き込む力がある。
僕はいつも、バナナの叩き売りを例に出す。
優秀なバナナの叩き売りのおっさんは、
人が集まるまで決してバナナの話をしない。
どうするのか。
手品とかジャグリングとか歌とか、楽しい芸をするのだ。
大道芸までいかない、ちょっとしたレベルでいい。
なんだか楽しいぞ、という空気をまずまとうのだ。
名調子で喋る芸も、最初は決してバナナの話はしない。
一端バナナは関係ないですよ、というふりをするのである。
殆どの往来の人は、バナナに興味はない。
バナナに興味がある人だけバナナを買いに来るだけだったら、
バナナの叩き売りのおっさんは必要ない。
自動バナナ売り機で、月の売り上げを定期的に売っていけばよい。
商売とは、そういうことではない。
バナナに興味のない人に、どれだけバナナがおいしいかを知ってもらうことだ。
だからバナナの叩き売りのおっさんは、
一部の人しか興味のないバナナの話より、
もっと多くの人が興味を持つことからはじめる。
近所の奥さんの浮気話がホットなら、そこから入るかも知れない。
政治やスポーツから入るかも知れない。
これを枕という。本題と関係ない、導入である。
物語では必ずしも楽しいことから始める必要はないが、
たいてい枕は本題より重くない。
あとで使う枕(伏線)が理想だが、
とりあえずは人目をひき、足を止めさせ、
人の輪をつくることが目的だ。
なんだか楽しいことやってるぞ、という空気が出来れば、
人は集まりはじめる。
ここでバナナの話をするのは野暮だ。
釣りえさの下にすぐ罠があるようなものだから、
人々はその仕掛けを知ってしまったら、
二度とそのおっさんの言うことに耳を貸さない。
楽しいのは頭だけで、次には要りもしないバナナを売りつけられるからだ。
人が集まり始めたら、もっと面白い話をするのだ。
それは何かの芸でもいいし、名調子の前口上でもいい。
集まった甲斐のある面白い出し物でなければ、
人は去るし、
ここで見続けていれば更に面白いものに出会えそうなら、
ちょっとぐらい約束に遅刻したって足を止めるだろう。
さあ、場があったまった。
ここでバナナの話をするのは、なお野暮である。
せっかくあったまった場を白けさせる。
この場を、一回ドカンと沸かせよう。
出来れば何回かドカンと沸かせよう。
ここでバナナか。まだ野暮だ。
ピークでドカンだ。場はカタルシスやエクスタシーに達する。
ああ面白かった、さあ帰ろうか、
ここでバナナだ。
おっさんが面白かったら、バナナこうてくれ、
芸の代金がわりに。
別に悪いもの売るわけじゃない。
正真正銘美味しいバナナや、お値段もちょっと安くしとく、
ぼったくりやない、正直価格や。
おっさんに満足し、おっさんがちょっと好きになった人たちは、
バナナを買うだろう。
もしその場でバナナを買わなくても、
次に前を通ったときに、同じぐらいおっさんが面白かったら、
バナナを買ってもいいかと思うだろう。
たとえバナナに興味はなくとも、だ。
これが本題と衣の関係である。
CMの商品と内容の関係であり、
物語のテーマとそれまでの話の関係である。
本題を、いくら正確に誠実に述べようが、
本題に関心のない人々は100%無視する。
チャンネルを変えるしトイレに行くし、寝るし約束に急ぐ。
その正確さや誠実さが、事実に正確かなどどうでもいい。
正確なだけなら、数学の証明を、
全ての人がいついかなる時も聞いてくれて、
なおかつ100%理解してくれて、今後いかなるときも応用してくれると
期待することと同じだ。
そのようになっていないのは、
基本的に人は、他人の言うことなど聞きたくないのだ。
親の忠告や説教、上司の怒りを、進んで聞いて、100%実践する?
そんなわけない。なるべくなら、右から左にしたいさ。
まずは、相手の心をゆるめて、
苦しゅうない、という状態に持って行くことだ。
出来るなら、次は何が出てくるの?と前のめりにさせることだ。
そして、満足させることだ。
ようやく本題を、そのときに切り出すのだ。
表現は一種のコミュニケーションである。
聞く体勢になってないヒトに話をするのは難しい。
ではどうやってゆるめるのだろう。
笑い、音楽、踊り、怒り、哀しみ、アクション的な凄い芸、
人目を引くことならなんでもいい。
その工夫こそが才能であり、経験が問われるところだ。
なんだかいい感じの絵を撮って、
言いたいことをその上にナレーションで被せているCM
(業界ではベタナレという)は、アホかと思う。
お前の言いたいことなんざ聞きたくない。
バナナの叩き売りのおっさんや、大道芸の人たちに、弟子入りしてこい。
道行く、興味のない人の足を止めることと、
バナナを買ってもらうことを両立させてから、
表現を考えろ。
あなたの言いたいことは何か。
その本題に対して、衣をどうするか、どうやってそこまでひきつけ続けるか、
あなたはどのように計算しているだろうか。
衣と本題は、別の次元のものだ。
その二者の融合が、表現というものである。
そこまでされて、はじめて表現はちゃんと聞いてみるかな、
という領域にいくのだ。
2013年10月23日
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