我々の想像力のちからは凄い。
ただの枯れ草を一端幽霊だと信じたら、
風に揺れるのを死者の国への手招きと思いこみ、
柳の葉がなびくのも、幽霊女の長い髪と思いこむ。
しかしオチは枯れ草だ。
物語の、オチ直前の殆どの部分は、これなのだ。
物語の殆どは、はじまりでもなく終わりでもなく、
「途中」(ACT 2)である。
ある焦点(今、これについて話していて、
可及的速やかに、○○しなければならない。
何故なら、△△だからだ)があり、
人々はその為に話したり行動する。
全ての人がその時点で、その情報を均等には知らず、
全ての人がその時点で、それぞれの意志や事情を把握しているわけではない。
ある問題が今投げ込まれていて、
人々はそれぞれの立場や都合でそれに反応する。
全ての人がひとつのことに合意できる訳ではない(コンフリクト)。
そのことが、今後事態が変容していく可能性を秘めている。
よく出来た物語は、
これから動くことを期待させることが上手く、
また、今進行している事態を、我々の頭のなかに構築するのが上手い。
事態や人々の都合が分かったら、
我々は頭のなかで自然に予測をしはじめる。
きっと真相はこうに違いない、
きっと○○は△△するつもりだろう、
だが△△が黙っちゃいないだろう、××だからだ、
だから◎◎になるかもしれない、
などだ。
こんなことが自分の人生に起こったらどうしよう、というのもそのひとつだ。
我々には想像力がある。
上手いストーリーテリングは、想像させるのが上手い。
我々に想像させるように、誘導するのだ。
枯れ草だったとしても、我々は自分の想像で、
幽霊に見えてしまうのだ。
下手なやり方は、我々の想像が物語の中身より上回ってしまうものだ。
ハッタリが上手くて、そのハッタリに我々が騙されている、
というパターンだ。
エヴァがその典型だ。
ロンギヌスの槍、世界樹、使徒、地下の巨人、人類補完計画、
アスカの発狂、綾波の正体。
最初にふられた謎めきで我々が想像した幽霊より、
中身がなかった気がする。
それを人はハッタリだったという。
看板が豪華で期待したら中身は犬の肉だった故事だ。
マルホランドドライブも同じタイプだ。
物凄く何かが進行している期待感だけがある。
分かりそうで分からない所で場面が変わり、
謎が残されたまま更に謎が増えていく。
我々は幽霊をそこに見てしまう。
実体より大きなものを見て、恐れおののくのだ。
この物語は解決しない。
ハッタリ以上のものが作れなかったのだ。
幽霊だけ見せて、その正体が枯れ草だと知られるのが怖くて、
正体を見せないまま終えたのだ。
園子温もそのタイプの作家だ。
なんだか猥雑で派手でえげつない題材を扱いながら、
物語性は皆無だ。
ストーリー自体がたいしたことないから、
うわべだけ派手にしている。
我々は幽霊を見てうわっと思うが、
正体は枯れ草だ。
彼の特徴は、キリスト教や詩などで、表面上何か大事なことを言っているのではないか、
と思わせることだ。
「冷たい熱帯魚」のマリア像、「愛のむきだし」の聖書の朗読、
「愛の罪」の詩、「ヒミズ」の震災。
物語のプロット上なくてはならないものではなく、
幽霊をそこに見させるためだけに存在するハッタリだ。
芸術とはハッタリである、中身は枯れ草だとしても、
それが幽霊に見える幻術こそが物語だ、
という主張があるかも知れない。
が、幽霊の正体見たり枯れ尾花の意味するところは、
なんだ、俺が馬鹿だったのか、でしかない。
我々書き手は、幽霊を書くのが仕事だ。
期待させたり、想像させたりをするのが仕事だ。
そして、物語が核心に迫り、解決したときに真に満足するものをつくるのが仕事だ。
枯れ草でガッカリされるものをつくってどうするのだ。
幽霊を見せ、その正体がわかったときに、
それ以上の驚きや感動や笑いが生まれなくて、
何が物語か。
それこそ、中身のある物語なのだ。
あなたの物語は、枯れ草を幽霊に見せるレベルだろうか。
枯れ草でないオチが来る、太い話か。
そのオチへ向けて、ちゃんと幽霊を見せているだろうか。
2013年10月24日
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