2013年10月24日

表現は、理解されない2

バナナの話の続き。
前の話を読めば分かるが、バナナとは、テーマの象徴である。

バナナを、いかに美しく旨そうにきれいに撮ったとしても、
ポスターじゃあるまいし、それだけでバナナはいいと思われない。

不味そうに腐ったバナナを撮るよりいくらかましだろうが、
時間軸を持つ物語というジャンルでは、その前に決着が既についている。
バナナの叩き売りの話だ。そこまでに信用されたかどうかのほうが大事なのだ。

バナナの叩き売りのおっさんが、
いかに道行く人の足を止めて興味を持たせ、
次は何が出てくるのか期待をもたせ、
世の中のことを一端忘れるほど夢中にさせ、
ドカンと沸かせ、
そんなことを提供するおっさんに好意を持たれない限り、
おっさんの身の上話であるバナナは、人々の心に染み入らない。

ここで、上手なストーリーテラーは、
今までの話が実はバナナと関係あった、という驚きを最後に持ってくる。


今までの話と全く無関係な構造の、バナナの話を最後にするのではなく、
これから話すバナナの話と似たような話を、全編にわたって前ふっておくのだ。

実はバナナも、今話したドッカンドッカンきた話と、
同じなんですよ、
と切り出して、はじめて人は、ほう、と思う。

これが上手なテーマの入り方だ。


「たとえ話」はその一番メジャーなやり方だ。
(この話全体も、バナナとたたき売りの関係を、テーマとそれまでの話にたとえている)
一見テーマとは関係がない話の構造をさんざん楽しませておいて、
実はそれはテーマの構造のたとえ話であったことを、
最後にすこしだけ種明かしする。

それまでの話の理解が深ければ深いほど、
それまでの感情移入が深ければ深いほど、
テーマの話は、心に深く入り込み、一生忘れ得ぬものになる。
その物語全体が、テーマそのものとして昇華する瞬間だ。

だからよく出来た物語は、テーマ出現以前の話より、
テーマの文章として、(圧縮されて)記憶される。


広告の世界では、商品に物語で「付加価値をつける」、
と商品目線から見た言い方がされたことがある。
「カルピスは初恋の味」などが古典的だ。

僕の好きな物語と商品の関係は、
「恋は遠い日の花火ではない。(サントリーオールド)」だ。
何本もパターンがある。たとえばこんな話だ。
 田中裕子演じる、ちょっと疲れた弁当売りに、若い男がいつも買いに来る。
 毎日ウチのお昼じゃ飽きちゃうでしょ、と声をかけたら、
 弁当だけじゃ、ないから、と言われた。
恋とは遠い年代になってしまった人たちが、ある日恋(らしきもの)に出会う。
ウイスキーとは、そんな大人が出会う、ほのかな期待のような炎のようなものである、
というたとえ話になっていることを、
「恋は遠い日の花火ではない。」という名キャッチコピーが暗に言う。
監督は故・市川準である。

このようにすると、ただ「大人が飲む、なんだか上質な飲み物」
という商品(テーマ)が、深く心に刻まれる。
ただの聞き流す説明でなくなるのだ。

バナナと、それ以前の人目を引く物語は、そのような関係になっていることが望ましい。


くれぐれも、バナナの話であることを、バナナ以前にさとられてはならない。
言いたいことは、最後の最後まで我慢する。
それを言われたときに、全てがつながる。
バナナという軸で。
最初からそれは仕組まれていたのだ。
なるほど。やられた。
これが、うまいストーリーテリングである。


最近そのような名CMが流れることがなくなった。

トップカットから我が社のロゴを出し、商品を出したい。
全ての秒数を使って、我が社の商品の特徴を正確に並べれば、
それが理解され、売れる筈である。

このような考え方が主流になってしまい、
そんな初手からバナナを出すようなものには、結果、誰も見向きもしなくなった。

次はどういう趣向でおっさんが来るだろう、という期待(ブランド力)も失ってしまった。

僕は、バナナのたたき売りのおっさんになるつもりで、CM業界に入った。
どうやら最近、そんな需要はないらしい。
実に嘆かわしいことだ。

かつてはCMが文化をつくる、と言われた時代がある。
それは、バナナを出さずにバナナの話をすることが、一種の芸になっていたからだ。
その芸を競い合い、高め合っていたからだ。

その大衆芸術の最先端としての物語芸は、
今はテレビよりも、ネットの世界にあるように思える。
(まとめブログなどでは、今でも天才たちが芸を競い合っている)


映画は、どうだろう。
製作委員会方式を取る限り、
製作委員会のメンバーが全員そのようなことだと物語をとらえない限り、
バナナが最初から出て来ても幻滅しないかも知れない。
これは、すぐバナナの話になっちゃってつまらない話だ、と判断出来ないかもしれない。


さて、バナナ売りは何故商店街からいなくなったのか。
バナナが普及したから、と思いたい。
それは、バナナという言いたいことを、みんな理解し終わったのだと、思いたい。
誰も興味のないバナナを、誰もが心に刻むまで、おっさんは芸をし続けた。
おっさんの話す面白い芸は、バナナに象徴されるまでに昇華したのだ。

おっさんは、別の新しいものをきっとどこかで売っていると、僕は思っている。
posted by おおおかとしひこ at 20:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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