バナナの話の続き。
前の話を読めば分かるが、バナナとは、テーマの象徴である。
バナナを、いかに美しく旨そうにきれいに撮ったとしても、
ポスターじゃあるまいし、それだけでバナナはいいと思われない。
不味そうに腐ったバナナを撮るよりいくらかましだろうが、
時間軸を持つ物語というジャンルでは、その前に決着が既についている。
バナナの叩き売りの話だ。そこまでに信用されたかどうかのほうが大事なのだ。
バナナの叩き売りのおっさんが、
いかに道行く人の足を止めて興味を持たせ、
次は何が出てくるのか期待をもたせ、
世の中のことを一端忘れるほど夢中にさせ、
ドカンと沸かせ、
そんなことを提供するおっさんに好意を持たれない限り、
おっさんの身の上話であるバナナは、人々の心に染み入らない。
ここで、上手なストーリーテラーは、
今までの話が実はバナナと関係あった、という驚きを最後に持ってくる。
今までの話と全く無関係な構造の、バナナの話を最後にするのではなく、
これから話すバナナの話と似たような話を、全編にわたって前ふっておくのだ。
実はバナナも、今話したドッカンドッカンきた話と、
同じなんですよ、
と切り出して、はじめて人は、ほう、と思う。
これが上手なテーマの入り方だ。
「たとえ話」はその一番メジャーなやり方だ。
(この話全体も、バナナとたたき売りの関係を、テーマとそれまでの話にたとえている)
一見テーマとは関係がない話の構造をさんざん楽しませておいて、
実はそれはテーマの構造のたとえ話であったことを、
最後にすこしだけ種明かしする。
それまでの話の理解が深ければ深いほど、
それまでの感情移入が深ければ深いほど、
テーマの話は、心に深く入り込み、一生忘れ得ぬものになる。
その物語全体が、テーマそのものとして昇華する瞬間だ。
だからよく出来た物語は、テーマ出現以前の話より、
テーマの文章として、(圧縮されて)記憶される。
広告の世界では、商品に物語で「付加価値をつける」、
と商品目線から見た言い方がされたことがある。
「カルピスは初恋の味」などが古典的だ。
僕の好きな物語と商品の関係は、
「恋は遠い日の花火ではない。(サントリーオールド)」だ。
何本もパターンがある。たとえばこんな話だ。
田中裕子演じる、ちょっと疲れた弁当売りに、若い男がいつも買いに来る。
毎日ウチのお昼じゃ飽きちゃうでしょ、と声をかけたら、
弁当だけじゃ、ないから、と言われた。
恋とは遠い年代になってしまった人たちが、ある日恋(らしきもの)に出会う。
ウイスキーとは、そんな大人が出会う、ほのかな期待のような炎のようなものである、
というたとえ話になっていることを、
「恋は遠い日の花火ではない。」という名キャッチコピーが暗に言う。
監督は故・市川準である。
このようにすると、ただ「大人が飲む、なんだか上質な飲み物」
という商品(テーマ)が、深く心に刻まれる。
ただの聞き流す説明でなくなるのだ。
バナナと、それ以前の人目を引く物語は、そのような関係になっていることが望ましい。
くれぐれも、バナナの話であることを、バナナ以前にさとられてはならない。
言いたいことは、最後の最後まで我慢する。
それを言われたときに、全てがつながる。
バナナという軸で。
最初からそれは仕組まれていたのだ。
なるほど。やられた。
これが、うまいストーリーテリングである。
最近そのような名CMが流れることがなくなった。
トップカットから我が社のロゴを出し、商品を出したい。
全ての秒数を使って、我が社の商品の特徴を正確に並べれば、
それが理解され、売れる筈である。
このような考え方が主流になってしまい、
そんな初手からバナナを出すようなものには、結果、誰も見向きもしなくなった。
次はどういう趣向でおっさんが来るだろう、という期待(ブランド力)も失ってしまった。
僕は、バナナのたたき売りのおっさんになるつもりで、CM業界に入った。
どうやら最近、そんな需要はないらしい。
実に嘆かわしいことだ。
かつてはCMが文化をつくる、と言われた時代がある。
それは、バナナを出さずにバナナの話をすることが、一種の芸になっていたからだ。
その芸を競い合い、高め合っていたからだ。
その大衆芸術の最先端としての物語芸は、
今はテレビよりも、ネットの世界にあるように思える。
(まとめブログなどでは、今でも天才たちが芸を競い合っている)
映画は、どうだろう。
製作委員会方式を取る限り、
製作委員会のメンバーが全員そのようなことだと物語をとらえない限り、
バナナが最初から出て来ても幻滅しないかも知れない。
これは、すぐバナナの話になっちゃってつまらない話だ、と判断出来ないかもしれない。
さて、バナナ売りは何故商店街からいなくなったのか。
バナナが普及したから、と思いたい。
それは、バナナという言いたいことを、みんな理解し終わったのだと、思いたい。
誰も興味のないバナナを、誰もが心に刻むまで、おっさんは芸をし続けた。
おっさんの話す面白い芸は、バナナに象徴されるまでに昇華したのだ。
おっさんは、別の新しいものをきっとどこかで売っていると、僕は思っている。
2013年10月24日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック